今月の注目作
(2005 / 日本 / 北野武)
小心者の思想 ―― 実写版・蛭子能収の世界

針部 ろっく

 この映画の内容を極めて強引に一言で言ってしまえば、「役者志願のコンビニ店員の中年男がひょんなことから銃を手に入れ、 それによって今まで散々抑圧されてきた彼が圧倒的な暴力を一気に噴出する」というもので、銃を手にしてからの後半の展開は、 自分に有無を言わせぬ権力・パワーがあったら誰も彼もメタメタにしてやるのにという、小心者の思想が展開されていく。が、 それだけの受け取り方も貧しいという気がするし、ストーリーを解釈することに殊更意味がない気もするので、 ここから先は看板に半ば偽りありといった具合に流れていく。

 この映画に「原作・蛭子能収」とクレジットがあっても、筆者は少しも驚かないだろう。蛭子能収がこの映画を見たら 「こんなの俺が二十年も前にやっちゃったよ」と思うかもしれない。「ヨイトマケの唄だって歌ったよ、俺」と言うかもしれない (テレビでのへらへらした蛭子さんしか知らない方は是非漫画を読んで見て下さい)。
 とはいえ、筆者とて蛭子能収の漫画を四、五冊読んだ程度で言っているにすぎないのけど、それでも、 主人公に襲い掛かる不条理で暴力的な仕打ちにしろ、ただ黙々と耐えるしかない主人公の気弱な性格にしろ、 その一方的な世界で主人公が垣間見つつも侵食される悪夢的な光景にしろ、それによる主人公の爆発の仕方にしろ、「パクったんじゃないの?」 というほどに類似性を持っている(北野武は絶対そんなこと言われたくないと思うが)。
 それを言った上で、この映画には蛭子能収漫画と歴然と世界観を異にしているものがあるように思われるが、それは何か。 この映画はあまりに不条理が連続するので「まるで夢を見ているような」 という形容をもってとりあえず感想を言ってみる人が多く出るだろうと思うのだが、この「夢を見ているような」 不条理な世界の中での登場人物の振る舞いにこそ、両者の大きな違いがあるのではないか。
 蛭子能収だったら漫画の登場人物に「悪夢を見ているようだ」と呟かせてしまうかもしれず、 登場人物がそのシュールな世界に一定の距離を持って接している。つまり、彼自身がその不条理世界において異物であり、 彼は額に汗を浮かべながらも、必死で平静を保とうとするかのように、一人でブツブツとよく呟いている。
 しかし、北野武の場合だと、登場人物は(つまりビートたけしということになるのだが、この名前の差はカラクリに過ぎないと思う) そこに描かれる不条理世界にただ黙々と没入している。彼ははにかむようなぎこちない笑みを浮かべつつも、周囲にいいように巻き込まれながら、 といって逆らうでもなく、ただぽつねんと状況を引き受けてしまい、そこから抜け出す方法をまるで持っていないかのようだ。彼は、 不条理世界の異物というよりは、住人と言った方が近い。というか、その不条理世界は彼自身の反映なのではないか。
 不条理の連続が悪夢を思わせるのは必然だが、蛭子能収漫画の登場人物がどこか別の場所からその悪夢に迷い込んでしまったというなら、 北野武映画の登場人物はまさしく悪夢を生きているのである。
この違いは決定的なものであると筆者は思うのだが、ではその違いはどこから来るのかといえば、 それは作者と言語の関係によるのではないかと思われる。
 先に蛭子能収漫画の登場人物はよくぶつぶつと呟いていると言ったが、彼はどんな不条理世界に囲まれても、言葉による自己防衛が働き、 世界への客観性が保たれている。言葉や論理は彼自身を形成することを担っていて、 周囲の不条理世界との距離感やバランスをようやくのところで保っている。というか、そのひしめき合いが蛭子能収漫画の魅力になっている。
しかし、北野武はもっと言葉を失っている。
 「言葉を失っている」というと、それは意外だと思う人が多いかもしれない。北野武といえば、 言葉を武器にしたコメディアンではなかったのか、と。それが実はぜんぜん違って、普通コメディアンが喋る面白いセリフとは、 発想そのものに言葉で形が与えられたものというか、言葉の上滑りに留まる発想によるもので、 その発想自体は何か具体的な現実を前にしたときのその違和感への反応であり、面白いセリフ(言葉)とは、反射神経の産物なのだ。それが右脳 (直感を司る)か左脳(言語を司る)のどちらを源泉にしているかといえば、徹底的に右脳であって、明確な境界はないにしても、 何と言ったらいいか、それは普段人が「思考」と呼んでいるものとは、何かが違う。
 これは北野武においてももちろんそうで、だから、北野武には言葉や論理が本質的な意味で(というか右脳的な意味で)存在していない。 それは言い過ぎにしても、左脳的な言葉の立場が圧倒的に弱い(多分、脳科学的には滅茶苦茶なことを言ってると思うが)。だから、 たとえそこに論理らしきものがあると思えても、それは概ね上滑りした言葉として発せられたもので、なんというか、彼の論理らしきものは、 世界に根づいていない。それが「言葉を失っている」ということで、つまり、根本的なところで、言葉は彼に味方しないどころか、 むしろ使えば使うほどに彼を見捨てていくことになる(そしてその仕組みが彼には分かっていないかのようだ)。彼が役者ビートたけしになると、 そして、役者ビートたけしが「お笑い」とは縁のない世界に入りこむと、途端に言葉を失ってしまうのは実はそういうわけなのではないか。
 誤解されがちなことだけれど、よく(というか一時期?)「次の都知事は誰に?」 なんてアンケートがバラエティ番組などで街灯調査的に実施されて「ビートたけし」と答える人が結構な人数いて、その理由が「頭がいいから」 などと言ったりするが、それは少なくともその人が言っている意味での頭のよさとはどこかねじれがあって、アンケートで理由として述べられた 「頭のよさ」とは、発想の多さ、それが次の発想を呼んで連鎖していく様、その間髪の入れなさ、言ってみれば「発想のドライブ感」 のようなもので、それは論理が本質に迫っていく過程やその手口に潜んでいる知性というか「思考のドライブ感」 とはまったく性質が異なるものだ。
 ついでに付け足しておくと、どこかで読んだ話なのだが、フライデー事件でしばらく仕事を干された?ビートたけしが、 このまま仕事しないでいたら(近似値イコール・喋らないでいたら)バカになってしまうのではないかと思って、 小学生の算数のドリルを解いていたという話があって、それもこのことを探る手がかりになるのではないか。

 話が逸れたが、ともあれ、北野武にとって言葉とは、現実の対象を前にして反射的かつ即物的に湧き出て来るものであって、 それは主にこの世界が括られていると思われているような論理からはみ出したその一瞬(つまり矛盾であるとか齟齬であるとかそういうもの) を捉えるための道具であり、それをいくら集積していっても決して意味を帯びた世界としての輪郭は見えて来ない。 彼が同じ言葉を使いつづける限り、そこにはただ「世界の歪み」が刻まれた刹那が連続するばかりだ。
 だから、先に「論理が世界に根づいていない」と言ったが、根づいていないのは論理ばかりではなく、彼自身もまたそうなのだ。 人を人たらしめるものの一つが言葉であるとすれば、やはり現実に機能する言葉を持たずして世界と折り合いをつけるのは非常に難しいことで、 つまり、彼が持つ類の言葉は必ずしも世界と自分を結び付けてくれることを保証しない。
 それどころか、彼はロジカルな言葉の喪失ゆえに世界に遣り込められている。上滑りばかりを続ける言葉は、 世界に向けて石を投げることは出来ても、決して彼自身を支えてはくれないのだ。映画の中の彼が延々と黙しているのはそのためだし、 もっと言ってみれば、自分の映画の中でただぶっきらぼうに歩く役者・ビートたけしを指して「あれは死体だ」というのは、 だから実はそうそう見当外れなことでもなくて、彼は言葉に見捨てられ、世界から切り離されて、ただ身体ばかりを持て余している存在として、 そこにいるのである。それを人間に似た何かと取り違えてしまっても、突拍子もないことではないのではないか。

 だが、彼はもちろん死体ではない。では何か。死体ではなく、コメディアンなのだ。
 元来、コメディアンとは死を恐れない。というか、死を知らない。知らないというか、受け付けない。分かりやすい喩えを持ってくれば、 彼らは胸に抱いたダイナマイトが爆発しようともただ髪の毛がチリチリになって、口から黒煙を噴き出すばかりで、 現実の人間のように肉体が滅んだりしないのである(その意味で、 コメディアンという存在はホラー映画の中の霊的なものと死に対しての距離が等しいとも言えるかもしれない。そしてまた別の話だが、 コメディアン出身のものがプロットやドラマというものを苦手だというのは、コメディあるいはコメディアンのこの本質からすれば、 ある意味で当然のことでもあるわけだ。何しろ、純然たるコメディアンには死ぬことへの真剣な葛藤が抜け落ちているのだから)。
 筆者は半ば意識して「芸人」という言葉を使わず「コメディアン」と書いてきたし、 映画の中でコメディアンとしてのキャラクターを獲得した存在と(「チャップリン」であるとか「キートン」であるとか、何でもいいが)、 ひとまずは一俳優として映画に出演しているところの登場人物をもちろん並列には語れないが、 今はそれを置いておくとして承知で飛躍したことを言ってみると、もしかしたら、北野武の全ては「死を恐れないコメディアン」 という存在からの横滑りですべて説明がつくのではないか。

 またしても話が逸れたが、上滑りしていくばかりの論理らしき言葉は、一向に積み重ねられるということがなく、 だから彼はいつまでたっても空っぽのままで、そうやって人が言葉で自らを世界に結び付けたり位置づけたり出来ないとき、 彼は世界の中で重力を失ったかのように、いつまでもあやふやに漂うだけになるが、実のところ、それこそがコメディアンの宿命というか、 言葉の不完全性により自分の身体が世界とフィットしないというその齟齬を感じている状態が彼のコメディアンたる所以でもあるのだが、 そうしたときにコメディアンという存在をもう一度考えてみると、 彼らは面白いことを言ったりやったりして周囲を笑わせるのはもちろんであるにしても、ただそれだけではなく、究極的には、 身体性を獲得していない言葉(あるいは世界と徹底的に噛み合わない言葉)をもって世界と戦うという、道化じみたような、 気狂い沙汰のような戦いを繰り広げる、孤高の体現者であるのだ。
 また、そこからコメディアンということを抜きにしてしまえば、言葉を味方にできていないある者が見る現実とは、歪みばかりが連なって、 そこに意味を帯びた繋がりを見出すことのできない世界であり、意味が通らない現実とはつまり不条理の性質を帯び始め、 不条理の連続とは極めて悪夢的ビジョンであり、要するに彼はそのはじめから現実自体を悪夢のように生きるということになる。 ここでようやくこの映画に話を戻ってくるのだが、それをもって、この映画に登場する役者ビートたけしは、 最初から悪夢に埋もれて生きているのではないか、ということになる。
 つまり、何が言いたいかというと、この映画には、 世界の中で言葉を失ったまま拠って立つところのない者が感じているリアリティが確かにあって、何より重要なのは、北野武が、 その言葉と身体と世界に齟齬を感じているというそのリアリティをフィルムに刻んでみせたことであるのだ。 これはもちろん誰にでも出来るものではない。というか、彼がコメディアン出身だからこそ出来た偉業であるとさえいえる。
 誉め過ぎかもしれないが、この映画において、一人のコメディアンが世界に真っ向から戦いを挑むその姿はほとんど感動的ですらあり、 筆者は見ていて興奮を抑えられなくなるような映画を久しぶりに見た。もちろん、 この映画をコメディと呼ぶようなつもりはさらさらないけれども(それは別にしても、日本においてコメディという言葉は不当に狭く捉えられ、 かつ不当に低く評価されているということはある)、この作品をもって北野武ははじめてコメディアンが撮るべき、 コメディアンだけが撮れる類の、それも世界に一握りの優れたコメディアン(もしくはかなり特異な作家)だけに可能な、 そして映画においてしか表現できない映画を、撮ったのではないか。
 更に言ってみると、悪夢であるにしろ、何であるにしろ、ここには言葉と身体と世界の関わりにおける確かなリアリティがあり、 この三つ巴の戦いを、下世話に意図的な笑いの要素を抜きに発展させていけば、それはベケットにまで昇華していく。 ベケットをまともに読めたためしがないので、これはひどく直感に頼った無責任な言い方にすぎないのだが、 そう言ってみたくなる気に駆られたことは本当だ。

 もう一人、主に言葉を武器にしたコメディアンという出自を持ち、映画監督でもある存在にウディ・アレンがいるけれど、 筆者の個人的な意見では、ウディ・アレンもこの言葉と身体と世界の齟齬に敏感だったコメディアンの一人で、彼の、たとえば「 「わしは車を運転していて、葉巻の格好をした物体が、どうも、このわしの車に付きまとっているらしいのに気がついた。どこをどう曲がろうと、 そいつは、わしにぴったり寄り添うように、一向に目も前を離れんのだ」(中略)。調査に当たった専門家は、その『葉巻上の物体』 がチェスター卿の鼻であったとの断定を下した」(『UFOの脅威」より)とか、 「シワだらけのスーツにグレイのセーターを着たニードルマンの姿は、今でも私の目にはっきりと浮かぶ。重大問題に心を奪われ、 彼はしばしばハンガーをつけたまま上着を着込んでいた」(『ニードルマンの思い出」より)と書いてしまうような「生真面目さ」 とも言われるような部分が、それをいくらか証明しているのではないか。また、ウディ・アレンはベケットの大ファンだそうで、 それもやはり単なる偶然ではなくて、彼自身どこかで感じているかもしれない世界との齟齬が、 ベケットの著作を通じて共振したからではないかなどと想像してしまうのだが、どうだろうか。
 とはいえ、ウディ・アレンはその齟齬をあくまでコメディ映画(特に初期の純然たるギャグ映画)の中で描いた。描いたというか、 ギャグ映画でしか描けなかったというか、ギャグ映画として描いてしまったというか(映画に限らず、 短編集においてもやはりギャグという形を取っていた)、それほど意識的ではないにしても、とにかくそういうところがあった。 北野武が映画の素養があまりない(らしい)ところから映画を撮り出したのに比べて、ウディ・アレンの場合、 ただのコメディを脱却してドラマに重きを置き始めるようになると、いわゆる「映画の枠」(というか「映画の記憶」というか) に頼ってしまうところがあって、これも才能といえばあまりに大きな才能であるとは思うのだが、 黙っていてもなぜかそれを映画らしくつなげることが出来てしまった(それは端から見るとあまりに易々とやっているように見える)。 その素養が逆に邪魔になってしまった形である。
 最近、ウディ・アレンは、フェリーニの「8 2/1」やベルイマンの「第七の封印」のような偉大な作品を撮ることができなかった、 と自作を振り返ってぼやいたらしいけれど(dさん、多謝)、だから彼の場合、スクリーンから大量の映像を浴びつづけた結果、 どうしようもなく染み付いてしまった映画の枠が邪魔をして、身体一つでその外に飛び出し、 彼が持っている世界へのリアリティをフィルムに刻むような、いわゆる「作家」らしいというか、 そういう行為が出来なかったということなのではないか。それは逆に言えば、北野武はその映画的素養のなさゆえに、 自分のフィールドであるはずのコメディを映画という枠では撮れないのではないか、ということにもなる。

 蛇足。『TAKESHIS´』の中で、役者ビートたけしが他の登場人物に拍手で迎えられるシーンは、『地球は女で回ってる』 の中で役者ウディ・アレンが他の登場人物に拍手で迎えられるシーンに共通している。ついでに言うと、筆者の「針部ろっく」という名前は 『地球は女で回ってる』の中で役者ウディ・アレンが演じたベストセラー作家「ハリー・ブロック」のもじりである。どうでもいいけど。最後に、 小見出しの「小心者の思想」という言葉もウディ・アレンの短編集から引き出してきた。

(2005.11.10)

2005/11/12/20:02 | トラックバック (9)
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