(ネタバレの可能性あり!)
「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」は地方の少女が将来を夢見て、何者かになろうと足掻く話である。この悲喜劇は、劇作家として活躍する本谷有希子氏の同名作品を原作とし、これまで数多くのCM制作に携わって来た吉田大八監督によって映画化された。カンヌ国際映画祭の批評家週間でも正式招待を受け、「こんな日本映画は見たことがない」とも評されたという。今回、演劇畑から生まれたこの作品の舞台――キャラの濃い人物が入り混じって関わりを経る空間――は「家」であった。人々が幼少期を過ごし、己の精神的基盤を獲得するこの環境では、成員との濃密な関係が自身に過去、現在、未来にわたって大きな影響を及ぼす。本作であえて“和合”という、家庭の原則とも言えるような姓を持った家の人々は、それとは裏腹に破滅の道を辿っていくことになる。
澄伽(佐藤江梨子)が「女優になりたい!」と騒ぎ出す。私は他の人間とは違う、そう叫ぶ彼女は和合家を混乱に陥れた。父親や腹違いの兄・宍道(永瀬正敏)に刃物を使って脅し、級友相手に売春をやって上京資金を集めだす。そのことを知る妹の清深(佐津川愛美)は、姉をホラーマンガに描き始める。清深はそれを雑誌に投稿して受賞までし、姉の醜態を村の人々に知れ渡らせてしまった。逃げるように村を出て行った澄伽は5年後、両親の死を知らされて地元に戻ってくる。かつての清深との一件も清算されないまま、再び和合家は彼女によってかき回され始める……。
本作では、舞台作品から映画へとその媒体を移し変えることで、人物描写の特徴が浮き彫りになっている。まずは、固定されたカメラによる対象への透徹した客観性とも言うべき点だ。宍道がソバを跳ね飛ばす光景は今までにない臨場感を持ち、彼の妻の待子(永作博美)が眼を押さえてばたつく姿の異様さは増幅されて描写される。また宍道と待子の情交は彼らが真剣になればなるほど滑稽に映る。視点を固定されたカメラは、これらのショットをデフォルメせずありのままに切り取る。その代わりに人々のアクションが過激であればあるほど、その物言わぬ視線は彼らの姿をいっそうシニカルに映し出すことになる。一方で、例えば清深が自分のマンガを姉から隠すときの息の詰まるような緊張感は、彼女のアップを多用して描かれている。様々な距離、角度から映すカメラは各場面を強調し、人物の心情や出来事の臨場感を味わわせることに成功している。
この俯瞰的な視点とデフォルメされた視点がたくみに織り交ざる中で、私たちは少女が一人、家族の中で異彩を放つ姿を発見することだろう。常日頃から澄伽の言動に傷つけられる清深は、澄伽の醜態をネタにマンガを描くことで、混乱の渦の外側からそのありさまをよりグロテスクに表現しだす。それはあたかも遠景を切り取り、時には各キャラににじり寄るカメラのような視点を手に入れたかのようである。表現者として、ある意味で自在な視点を獲得することで何者かになろうと思い始める清深。彼女にとってマンガはささやかな趣味から、己の存在価値を確立するための才能へと形を変えていく。このダイナミックな物語構図の変化と心情描写の中核として現れる少女、清深こそ、まさに本作の真の主人公であると言える。一見、ストーリーの中心にいるのは澄伽にも見えるが、彼女はその見てくれとエキセントリックな言動でむしろ物語を牽引する役柄を担っているに過ぎない。
地方の少女は、かくしてマンガ家として立つことを夢見る。和合家でなされた姉の異常な行動を糧に開花したマンガの才能を、清深はこの後プロとして維持していくことができるのだろうか。ラストシーンはその少女の将来を占うのに最適な場面だ。
清深が一人東京に向かおうとするその瞬間、澄伽が彼女を追ってバスに飛び込んでくる。澄伽は逃げる清深を追い、捕まえて言う。
「あんた、私のこと描くんなら最後まで描きなさいよ。これからが面白ぇんやけ」
少なくとも、姉がバスに乗り込んでくる直前までは清深には成功の兆しがあったように思う。彼女が和合家を発つときに垣間見せた、モノを観察するような黒々とした瞳は、身内である家族を徹底的に突き放してネタにする態度そのものである。それだけで、辛酸を嘗めながらも自身の不幸をネタにする破滅的なマンガ家としての日々が想像できるようである。しかし、姉の申し出はそんな彼女の決心を破綻させるものだったに違いない。それまで自分を中心に世界は回っているとでも思っていた澄伽は、ここにきて妹に自らを提供している。清深にはそれを断ることなどできない。それは第一に、文字通り“ネタ”が飛び込んできたからであり、第二に“歪んだ”家族像が思わぬところで改善されることになったからだ。姉が突然に見せる、己を省み、己を知った言動は、姉妹間の関係の急速な改善を予感させるものだ。姉の傍若無人さが原因でまともな家族の姿をやむなく諦めた清深にとっては、姉の申し出は望外の喜びでもあったことだろう。
ラストシーンで清深はスケッチブックに、バスに揺られる姉の寝顔を描く。その絵の姉の表情は今までになく端整で、グロテスクな描写はすっかり影を潜めてしまっている。清深は、マンガ家になるためのモチベーションだった“歪んだ”家族像から逃れると同時に、自身のマンガ家としての個性を失ったのだ。今後どんなに二人が頑張ったとしても、それは歪みや狂気を「意識して」演じることになり、才能を以前のように発揮することは叶わないだろう。もっとも「意識すること」はプロとして当然なのだろうが、少なくとも清深にとっては意識しないでいた方がよほどマシだったかも知れない。
なにものかになろうとして、なにものにもなれない……
このような一文が、公式サイトの物語紹介に書かれている。サイト上では、自意識ばかりで才能のない澄伽が結局女優になれないことを言っているようだが、これは同時に妹の清深の末路でもある。地方でその才能を見込まれて上京したものの、何故か途端に鳴かず飛ばずになってしまう、そんな話は、実際にここそこでよく耳にするエピソードでもある。この通説であろう話を焼き直すことで――映画ライターの森直人氏が言うような――いわゆる“地方女子”の現実をあらわにしてしまった所に、本作品の“痛さ”がある。もちろんこれは夢見る地方居住者だけに向けられた話ではない。才能の開花を期待する者が挫折していくさまをありありと描き出した物語だとも言える。この無名の愚かさの末路、と言うべきものを見せ付けられると、いまだ先行き定かでなく、何者でもないぼく自身のことを言われているように感じてしまう。清深が部屋でマンガをシコシコ描いている姿に、ぼくはもういたたまれず赤面し、言葉にならぬ言葉を呻きながら、シートからずるずるとずり落ちていった。(2007.8.4)
腑抜けども、悲しみの愛を見せろ
2007年 日本
監督・脚本:吉田大八
原作:本谷有希子
撮影:阿藤正一,尾澤篤史
美術:原田恭明
出演:佐藤江梨子,永瀬正敏,永作博美,佐津川愛美,上田耕一,山本浩司,
土佐信道,谷川昭一郎,吉本菜穂子,湯澤幸一郎,ノゾエ征爾,米村亮太郎 他
(C)2007「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」製作委員会











