話題作チェック
(1971年 / 日本 / 山下耕作)
「絵空事」と「自己アピール」映画が溢れる現在にこそ
解き放たれるべき血の通ったフィクション

河田 拓也

ここのところ、本当に暗いニュースが続きますね。
格差社会、ワーキングプアなんて言葉が、言葉だけじゃなく、あっという間に日々の「当たり前」になってしまった。
東京と地方、大企業とそれ以外の格差が行くところまで行って、周りはリストラされた低賃金の派遣社員や、お年寄りの隠居所と化したシャッター通りだらけ。
田舎では子供の声も聞こえず、家同士の行き来もなくなってしんとしている。
こうした状況は、繰り返しかまびすしく報道されるし、テレビドラマなどにも頻繁に取りあげられる。でも、自分と周囲の現実が「当たり前」にそうである程、逆に空々しく、遠く見えてしまう。
実際に、自分の淋しさを、本気で気にかけてくれる人間なんて周りに誰もいない。
人間、そんなもんかなとも思うし、「自己責任」と言われれば、全部自分の無能のせいにも思える。
低賃金で働く外国人労働者たちを見ていると、仕事を奪われて憎らしい半面、自分達は贅沢に慣れすぎ駄目になっただけのような気もする。だからただ、自分を恥じて黙っている。
心の底に、形にならない淋しさや怒りのようなものはあるけれど、一切を律して打ち込むに足る仕事や生きがいがあるわけでなく、考えてどうなるわけでもなく、今夜もネットとゲームと携帯で時間を潰す。
そんな気持ちで生きている「仲間」にこそ、この映画を観て欲しい。

「任侠映画」というと、義理人情といった「建て前」が様式美の中で語られる、旧きよき時代劇のようなもの、という予断が先にたちがちですが、それはこの際忘れてください。
この映画はもっと「ナマ」な部分で、現在の観衆の感情にまっすぐ届くはずだから。
例えば、本作と同じ山下耕作、笠原和夫コンビによる『総長賭博』は、仁侠映画を突き詰めた結果、任侠映画を内側から否定した最高傑作と言われているけれど、現在の目から観ると、やくざ組織内の「義理」という建て前にこだわるあまり、建て前を利用して悪辣に立ち回る金子信雄にしてやられっ放しであるばかりか、これに逆らって義理を踏み外す兄弟分の若山富三郎を自分の手にかけることになる鶴田浩二の行動原理が、ほとんど理不尽に見えてしまうと思います。調度、『仁義なき戦い』で、誰もが損得勘定丸出しに立ち回る中、一人筋論にこだわる文太が、かえってトラブルメーカーに見えてしまうように。
鶴田浩二の出自がどういうもので(本当は暗に、被差別部落出身であることが匂わされているのですが、我々が初見で気付くのはほぼ不可能だと思う)、どういう理由で彼がやくざにこだわり、またやくざ社会において、どうして「義理」がそれだけの重みを持って守られているのかが、現在の感覚では体感できないからです。
けれど、この映画では、藤純子演じる主人公太田まさ子の、建て前以前の「ナマの動機」が、しっかりと描写されています。

ある時、彼女が客分として胴を取っていた賭場で、負けが込んだ男が暴れ、逆に殺されてしまう。男は実家の船宿を担保に借りたコマをすべて擦ってしまい、責任を感じたまさ子は男の遺言を聞き届け、また、自ら借金の取立てを引き受けて男の故郷に向かう。
男の実家の船宿を訪れた彼女は、年老いた両親、そして彼らが面倒をみている漁師の女房たち(新興やくざによる港の建設工事のために漁場を失い、夫たちは出稼ぎに出ている)と親交を持つ。しかし、どう取り繕っても彼女の立場はやくざの博打の借金取りだ。
歓楽街建設のために船宿を狙う土建やくざに対して、政子は自分が大阪の大物やくざの代理であることを盾に彼らを守ろうとするが、まさ子自身も取立人である以上、不安定な助っ人の立場が長続きするはずもない。
挙げ句、土建やくざとまさ子のバックである大阪のやくざは、お互いの利益の為に手を結んでしまい、彼女は組織から「何をふらふら遊んでますのや?」と、逆に追及を受けることになってしまう。

「任侠映画」というジャンル的予断は捨ててくださいと書きましたが、堅気衆を踏みにじるやくざたちの斟酌の余地の無い悪辣さや、藤純子の折り目正しく美しい立ち振る舞いなど、フォーマットそのものはまごうことなき「仁侠映画」のそれです(とは言え先日、北京五輪の用地利権に群がる土建屋と汚職役人が、グルになって地域住民の追い出しをやってるニュースを見て、かつての日本での仁侠映画需要の背景のリアリティを垣間見た気がしましたが)。
ただ、彼女を孤独にさせているのは悪辣な敵だけではない。
まさ子の正体が明らかになった途端、土地の女房達の視線は仇を見る憎悪へと豹変します。
まさ子は、あくまで「やくざ世間」に属する渡世人です。いや、彼女だけじゃない、観客である我々自身が清廉でもなければ美しい被害者でもない、世間の力関係に連なるために媚態を使い、反発と恥とコンプレックスとを腹に抱えながらも、自分を取り繕って日々生きている。
これは客観的には、誤魔化しようのない事実だし、かといってそれを拒否すれば、恐ろしい孤独と苦難が待っている。

この事実をリアリズムで描写するだけでは、ただ陰々滅滅とした話になってしまう。
人は往々にしてそれに耐えられないから、自分の願望を投影して、さも現実に希望があるかのように描きたくもなるし、それが無理な時は「仕方がない」「これが現実なのだ」と、苦い諦念を装いながら自己正当化を図りもする。いずれにしろ、自分の立場を隠すために、リアルを装った曖昧なフィクションは、作り手と観客が馴れ合った現実の帳尻合わせの道具に成り下がってしまう。

さらに正確に言えば、現在の僕たちは、渡世の義理に縛られているというよりも、世間を失い、見捨てられていると言った方が実感に近い。
世間の煩わしさ、窮屈さを厭い、金と便利に流された結果、誰もが独りになった。
独りになって、自分が世間の凌ぎあいの当事者であること、人が作る世間の根っこにある、変わりようのない厄介さを忘れてしまっていた。
金と便利で僕たちを牛耳るものに対して、逆らうリクツと力を失い、「人間は所詮…」と思っている。
だから僕たちの不幸は、個人的で取るに足りない、所在なくみすぼらしいものになっている。それぞれの孤独な自意識は沈潜し、あるいは安易に垂れ流される程に、更に陳腐になるばかりに見える。
けれどだからこそ、生きる力の弱いものであればある程本当は、誰かとの繋がりと、そこから生まれる生きる意味と物語とを求めている。
人としての尊厳を持ち、自分を支えたいと願う。

まさ子は、背筋を伸ばして孤独な正義を貫く女渡人。あくまで、絵空事の中のキャラクターです。
けれど、彼女の世間の義理に背いた結果の、恐ろしい孤独というリアリティも同時に描かれる。
いや、堅気でもなく、やくざの義理も踏み外してしまった彼女に、正義があるのかどうかさえ定かではない。強気を助け弱きを挫くなんてことを、処世の上で本当に貫いていたら、誰も生きてはいけない。
では、まさ子は何のために戦うのか?
彼女は親に捨てられた孤児で、捨てた親を憎みながらも、心の片隅で親を乞う心を捨てきれない(これは実は、脚本の笠原和夫自身の生い立ちが投影された、彼の肉声そのものでもあります)。そして息子に死なれた盲目の母親は、本当は息子の仇である彼女を、息子の嫁だと信じている。
まさ子は彼女を守るために、自分と盲目の母親を繋ぐフィクションに殉じて戦います。
そして、その結果彼女を待つものは…

藤純子の立ち振る舞いは、弱く、孤独な人間であるからこそ、せめて背筋を伸ばし美しくありたいと願う、人の思いがそのまま形になったかのようです(両親や土地の人々に対する女性的で所在なげな表情と、土建やくざに立ち向かう毅然とした迫力、そして赤ん坊を抱き締めて仔犬のように泣きじゃくるナイーブな可憐さ、といった、人々の本音と願いとが投影された触れ幅の大きな芝居に、ドラマと一体になって確固たる存在感を与えた、この映画での彼女の演技は、本当に素晴らしいです)。
そして嘘だからこそ、絵空事だからこそ、人はそこに自分の偽らざる「本当」を重ね、解放することができる。

フィクションとは、ただ絵空事のことじゃない。
リアリティとは、ただ現実をそれらしく写実することじゃない。
ここにあるのは、じっくりとした書き割りの様式に、人々の現実に根ざした情と(叶えられない)願望を込め、「劇的」に解き放つ技術です。
現在を覆っている、あざとい自己アピールとポーズ合戦の道具に成り下がった安っぽい「感動」やシニシズムに連なることに、うんざりしている友人達にこそ、この映画を観て欲しい。

今年の暮れは浅草で、藤純子と三益愛子の掛け合いによる衝撃のラストシーンに、一緒に泣きましょう。

(2007.12.20)

女渡世人 おたの申します 1971年
監督:山下耕作 脚本:笠原和夫 撮影:山岸長樹 美術:鈴木孝俊
出演:藤純子,菅原文太,島田正吾,金子信雄
http://www.e-asakusa.net/meigaza/

12月26日~31日まで浅草名画座にて、三本立て上映

2007/12/20/19:53 | トラックバック (0)
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