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アライブ―生還者―

2008年 東京国際映画祭 特別招待作品
2007年アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭グランプリ受賞(オランダ)

2008年グアダラハラ国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞受賞、
2008年マイアミ国際映画祭観客賞受賞
2008年マラガ・スペイン映画祭審査員特別賞、観客賞受賞、
2008年DOCVILLEドキュメンタリー画祭グランプリ受賞
2008年DOXAドキュメンタリー映画祭ドキュメンタリー賞受賞

4月11日(土)より、ヒューマントラストシネマ渋谷他全国順次公開

INTRODUCTION

「アライブ‐生還者‐」11972年10月、世界史にその名を残し、タイタニック号の沈没やスペースシャトルの爆発にも劣らない衝撃を全世界に与えた‘アンデスの聖餐’事故。墜落死した乗客の人肉を食いつなぐことによって、氷点下の雪山で72日間を生き抜き、ついに脱出に成功した16人の生存者の事故記録と証言は世界中で好奇と理解の両方の反応によって迎えられた。当初、これを現代のカニバリズムとして捉えるものもいれば、これを神が自分たちに与えた試練だったという生存者たちの説明を歓迎するものもいた。
その後、事件の詳細を綿密な調査と関係者の証言をもとに構成されたルポルタージュ作品「生存者」(P・P・リード著)が発表され、また、サバイバル映画の名作『生きてこそ』(93)の中で、事故の詳細と生存者たちの脱出に向けた過酷な戦いが描かれた。その両作品に共通して流れている熾烈な状況下における団結と友情、そして生きるための強い意思の表現は事故の真実を誠実に語るものである。

しかし、同じウルグアイのモンテビデオの出身で、生き残った生還者たちの友達であるゴンサロ・アリホン監督は、彼らと話を交わす度に必ず話題に上るこの事件の話を聞き、そこに前記の2つの表現方法(著作、フィクション映画)では語り尽くせなかった、生還者の言葉だからこそ伝えることのできる事故の真実がまだ残されていることを発見する。
すでに国際的に著名なドキュメンタリー作家であったアリホンは、生還者たちのインタビューを採録するとともに、その証言をもとに当時の事故状況を再現して、その時、サバイバルの現場で何が起こったのかを忠実に追究してゆく。また、特筆すべきことは、この作品が生還者たちと事故で亡くなった人々の遺族との交流も、同時に描いていることであろう。彼らが事故を封印せず、互いに交流を保ち癒しあう姿は、見る者に‘それでも生き残ることの大切さ’を強く訴え掛ける。モノクロームの抑えた映像で描かれる再現ドラマの詩的な表現と対照的な映像は、まさにドキュメンタリーという手法だからこそ迫ることのできた優れたアプローチであろう。

この『アライブ‐生還者‐』は、2007年に国際的なドキュメンタリー映画祭として名高いアムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭(IDFA)でグランプリに当たるVPRO Joris Ivens賞を受賞後、2008年にはサンダンス国際映画祭を初めとして、サンフランシスコ、マイアミ、マラガ、トロント、ストックホルム等30以上の国際映画祭に招待され、ドキュメンタリー各賞を受賞し、大変な反響を呼んでいる。究極の状況の中で生きることを選ぶ人間の意志と団結力の物語は、崇高な人命がたやすく失われるようになった現代社会において、必ずや日本でも多くの人々の賛同を集めることだろう。

Story

「アライブ‐生還者‐」21972年10月12日、ウルグアイ空軍の軍用機がモンテビデオから45名の人々を乗せてチリのサンチアゴに向けて飛び立った。飛行機は、ウルグアイ郊外の高級住宅地カラスコから来たラグビーチーム‘クリスチャン・ブラザース’によってチャーターされたものだった。若者たちは親善試合に遠征する予定で、何人かの親や友人たちと共に、太平洋の海岸で楽しい週末を過ごそうと考えていた。
しかし、アンデス山脈付近の悪天候のため、飛行機は山脈のアルゼンチン側山麓にある平凡な町メンドーサに着陸せざるを得なかった。天候の回復を待ち翌13日、飛行機は再び飛び立った。15:30、パイロットはサンチアゴの管制塔に飛行機の位置と高度を連絡した。しかし、その1分後、管制塔が再び飛行機と通信を試みたが、今度は何の返答もない…チリ、アルゼンチン、そして、ウルグアイが共同で飛行機の捜索を始めたが、その年のアンデス山脈は記録的な大雪に見舞われており、機体を白く塗られていた飛行機を発見する可能性は非常に低く、45人の乗客のうち一人でも生き残っている可能性はさらに低かった。
惨事から10日後、捜索は打ち切られた。生き残った遭難者たちはこの事実をまだ動いていたラジオで知った…そして、そこには食べるものは何も残されていなかった……。

10週後、アンデス山脈の麓を流れる谷で羊の群れを追っていたチリ人の羊飼いは、その急流の向こう岸に二人の男の姿を発見した。彼らは熱狂的に身振りを繰り返すと、膝をつき、両手を大きく広げた。羊飼いは彼らを旅行者と-テロリストとさえ-思い込み、彼らを置き去りにした。しかし、翌日、彼は同じ場所に戻るとその二人の人物がまだそこにいるのを知った。川の水音は大きく、両岸の3人がお互いに言ってることを理解することは難しかった。そこで、羊飼いは紙とペンを丸め、ハンカチにくるんで向こう岸に投げた。ぼろぼろの服に髭だらけの男たちは、紙に何かを書き込むと羊飼いに向かって投げ返した:
「我々は山腹に墜落した飛行機からやってきた。14人の仲間がまだ生き残っている。ここはどこだ?」
墜落事故から70日、フェルナンド・パラード(20)とロベルト・カネッサ(19)は70キロの山道を歩き、アンデス山脈の4分の3を徒歩で渡り、ラグビーブーツ以外にはいかなる装備も持たないまま、高度4,000メートル以上の頂群を乗り越えてきたのだ…その2日後に救出はなされたが、72日間の地獄のような日々、ある者は母親を失い、ある者は妹を失い、そして、すべての者たちが親友を失っていた。結局、16人の生存者がいた。ロベルトは世界に向けて、この生還劇を‘16人の世紀の生還者’、そして、彼らが救助されたのがクリスマスの2日前だったことから、‘アンデスの奇跡’と語った。

救出されてから5日後、熱気に包まれた記者会見の中、生還者たちは熟慮の末、思い切って真実を語った。
「……ついに食料が底を尽いた日、我々は思った。最後の晩餐の時にその血と肉を捧げたように、キリストが我々にも同じようにしなければならないということを指し示しているのだと:我々の死せる友人たちの中に具現化したその血と肉を受け取らなければならない……これは、我々すべての間で共感されたことだ……それが我々を生き延びさせてくれたのだ……」
それは社会における最大のタブーの一つが破られ、公に明るみとなり、世界中が大きな衝撃を受けた事件だった。

35年後、‘アンデスの聖餐’の生還者と事故で亡くなった者の子供たちが、慰霊のためにアンデス山脈の事故現場を訪れた。冬の季節は終わり、そこにはあの真っ白な雪原はないが、亡くなった者たちの墓標として十字架が立てられている。彼らはそこで互いに肩を組み、鎮魂のために祈りを捧げる。亡くなった者たちの肉体は今も生きる生還者たちの中に生き続けているのだと感じながら。

インタビュー

ゴンサロ・アリホン監督  ロングインタビュー

Q:何故あなたはこの映画を作ろうと思ったのですか?

「アライブ‐生還者‐」3ウルグアイ人として、私は最初からこの話をとても身近に感じていました。事故が起きた時私は15歳で、とても強い衝撃を受けました。彼らが生還した時、とても胸をうたれましたが、それというのも彼らの内の何人かを個人的に知っていたからです。事故の後、遭難者の何人かが現れたというニュースを耳にした時、それを信じようとはしませんでした。
後に生還者たちが普通の生活に復帰した時、私はこの物語に深く迫り、次第に彼らの内の何人かとより親しく知りあうようになりました、ロベルト・カネッサ、グスタボ・セルビーノ、フェルナンド・パラード、カリートス・パエスといった人たちです。そして、年月が経つにつれて、いつも感じていました…特に彼らと共に過ごし、いわゆる「それ」を乗り越えてきたという彼ら自身の話とこの事件を伝えるマスコミの手法を聞いた後では─P・P・リードのとても素晴らしい本(注1:『生存者』(新潮文庫刊))は別ですが、あれは事実に基づいたことしか書かれていませんし、非常に優れた作品です。私は他に何本かのドキュメンタリーと幾つかの報道記録をそこかしこで見ましたが、どれもが逸話的で、物語自体が持つ可能性に比べて力強さがありません。映画『生きてこそ』(注2:1993年制作。アメリカ映画。主演:イーサン・ホーク/ヴィンセント・スパーノ 監督:フランク・マーシャル)でさえ、脚色されていて大衆向けになっていました。そこで、私はまだ、この事件を語る映画が作られる余地があると思ったのです。事故後30年を経て、生還者たちが事故を平穏に語ることができるようになったという利点を活かしてです。彼らは今、時間だけが癒すことのできる平常心で事故を振りかえることができます。そして、私は、この作品は事実に基づくだけでなく、生還者たちがこの体験から達成したことをも描こうと思ったのです。

Q:この映画を撮る上で試みられたことは何ですか?

まず第一に、生還者たちに個別にインタビューした時、どうしたら彼らにふさわしい雰囲気や精神状態を確保できるだろうかと考えました。そのため、彼らには、モンテビデオ(注3:ウルグアイの首都。人口140万人)から100Km以上離れた隔絶した場所に行って、24時間過ごしてほしいと頼みました。完璧に平穏で、自然の真っただ中で、電話もなく、世界から切り離された場所に24時間です。その24時間の間、我々はインタビューを採ったばかりでなく、一緒に食事をし、話に花をさかせ、時に笑い、眠りました。私は24時間中質問し続け、採録しました。
最初の試みは、生還者たちの精神状態を30年前の山の上での状況に戻らせることでした。私に何が起こったかを話すだけでなく、彼らの感情や疑念をあたかもその場に戻ったかのように話させることです。もちろんそこには彼ら自身の同化作用によるプラスもあり、その後自然にインタビューの中に浮かび上がってきました。しかし、私は彼らに自分の意見や感想と体験した事実を混同してほしくはありませんでした。彼ら自身に後付けされた挿話の痕跡を取り除いてもらい、その供述を明確にさせました。それぞれの異なる精神状態や感情、雪の中で72日間も閉じ込められたことによって体験した感覚をできるだけ無菌状態で私に伝えさせました。それが最初の試みです。
2番目の試みは、彼らが72日間生き抜いた隔絶された世界をどのように映像で表現するかでした。私は映画の中に、純粋なドキュメンタリーの条件を超えて、ある種の映像的アイディアを入れる必要があると感じていました。しかし、何としてもこれが再現ドラマのように見えてしまうことは避けたかったのです。事件を再現しようという意図はありませんでしたが、生還者たちが私に伝えた供述と感覚を基に、私的な解釈による映画的シーンを加える必要があると思っていました。雪の中の彼らの閉じ込められた世界を、もっと感覚的に、その時の気候や─直接的な再現ドラマではなく、セリフもなく、若い役者たちに特定のキャラクターを演じさせる狙いを持たず、フィクションというよりむしろ記憶に基づく何かを捕らえようとする心理的映画の試みでした。そのため、これは私にとってもまったく新しい試みでしたし、それを達成しようとするのは本当にリスクのある手法でした。

Q:どのようにして、映画の中で描かれる主題に対する確信を得ていったのですか?

私は最初にこの映画は生還者たち全員と作らねばならないと考えました。彼らは一つのグループであり、これはグループの物語でしたから。それに、彼らの供述は皆等しく重要でした。そのため、発端として私はグループの全員に依頼しましたが、これは初めてのことでした。何故なら、過去の報道やドキュメンタリーでは、何時も特定の取材過程があり、常にメディアによってグループの同じメンバーが選ばれていました。それは最も鮮やかに語る者だったり、最もエキサイティングに語る者だったりします。そして、他の大多数の者たちは長年に渡って沈黙を保ってきたのです。この映画はグループについての映画だという点があった上、私が彼らの内の4、5人と友達だったということもあります。同じ国の同じ街の出身でしたから─つまり、これは彼らの身近にいたウルグアイ人の目から見た初めての作品であり、遠くからやってきた人間がセンセーショナルに演出しようとする作品以上のものでした。 そこに大きなリスクがあることはもちろんわかっていました、16人の登場人物を扱うのですから。これは1本の映画にしては非常に多い数です。全体では25人の出演者がいましたし、それをコントロールするのはとても大変でした。多くの友人のプロデューサーや友達からは、これだけの大人数の登場人物を使うのは危険だと警告されました。しかし、私には他にやり方が思いつかなかったのです。

Q:映画の中にカニバリズムの主題を持ち込むに当たって、どのようなアプローチをしたのですか?

実際問題として、カニバリズム(注4:人肉嗜好、食人)という言葉はここでは正しくないですね。正しい言葉はアンソロパファジー/ネクラファジー(注5:食人風習/死食性)で、すでに死んだ肉体を食べるか、食べるために他人を殺すかという違いがあります。明らかにこの部分は物語の中で最もデリケートな部分です。タブーに触れる部分ですが、これは西洋文化の中のみならず、知る限りでは世界的にあらゆる年代に渡って浸透しています。
では、どのようにアプローチすべきか?それは敬意をもって接するということです。この主題について、私は生還者たちに無理強いはしませんでした。彼らに何も求めることなしに、好きに話させたのです。何時の時もこの主題はインタビューの中に現れます。その時は広いスペースで、何の指示や報道的感覚での結論を求めるような押しつけもなく話したいように話させたのです。そのため、度々彼らが話をできなくなることもありました。それは彼らの中でも曖昧にしてあった部分で、言葉にすることができなくなったのです。私はそれを尊重し、紳士的態度でそれを受け止めました。彼らがこの話に差し掛かった時は厳しく当たらず、黙って配慮を見せ、いかにそれが困難なことであるか共感を示しました。そして思うに、この配慮ある態度、事実を分け合おうとする態度が彼らに自らの言葉でこの部分を表現させることを助け、満足させたのだと思います‐それは、彼らからセンセーショナルな話を引き出そうと意気込むジャーナリストのやり方とは正反対のやり方でした。
この作品では、時に沈黙や表情が言葉と同じくらいの重みを持ちます。そして、この方法が彼らにインタビューを気持ちよく受けさせ、この主題についてより正確な表現方法を見つけることができるようにしました。事実、生還者の誰もがそのことを表現する自分自身のボキャブラリーを発見したのです。

Q:あなたが映画の中に盛り込みたいと思っていながら、しなかったことは何かありましたか?

「アライブ‐生還者‐」4はい、実のところ、最初から私は彼らから話を聞いてよく知っていましたし、知る限りの多くの事柄を読んでいましたから、この作品に取り組み始めた当初は、自分にとって一番興味深かったことは事故の事実自体ではなかったのです。誰もが私と同じくらいこの事故をよく知っているだろうと思っていて、むしろ事故が生還者たちに与えた影響に興味がありました。彼らはこの事故とどのように関わってきたのだろうか?そこで、最初はこの物語は事実よりもっとモラルの側面について重きを置かれるはずでした。この事故がその後の彼らの人生にどのような影響を与えたのか?彼らはこの体験からどのような教訓を学んだのか?彼らはこのことを子供や身近な人々に語るためにどのような努力を重ねたのか?これが当初、私が作ろうと思った映画のストーリーでした。
そして時が経つにつれて、私は多くの人々が、特に若者が‐彼らは物語をとても凝縮したバージョンである『生きてこそ』を見たのかもしれませんが‐通常、あるグループの人々が山で長い間行方不明になって、その後人間界の秩序の中に戻ってくるという、事故の概要しか覚えていないことを発見しました。そこで私は、もしこの話が本当に興味深いなら、それは事故そのものとその詳細を通じて語られるべきだろうと考えました。そのため映画は全く違った方向から描かれることになり、難解にして多岐に渡る事故の詳細、72日間に渡る試練における新しい要素を聞いた時の生還者たちの反応は心を掴むものとなりました。私は結局、この物語は「何が起こったのか」「生還者たちは何を体験したのか」「近親者たちとどのように接したのか」を機能させるべきで、長いエピローグを加えるより、彼ら自身の口から事故の話をさせるべきだと考えました。言葉を変えれば、最初私は事故の詳細などは映画の小さな要素であって、生還者たちの反応やその後の人生の中でどのようにこの事故と付き合っていったのか?についての映画にしようと思っていたのです。しかしそのような哲学的な部分は映画の行間に反映されることになりました。
最初はこの映画の倫理的側面を掘り下げられなかったことを後悔したりもしましたが、今日、生還者たちが事故をどのように捕えているか、集団がどのように機能したか、彼らが自分たちをどのように見ているのかについての素晴らしいインタビューを集めることで、これを事故の詳細をもとに描く別の映画なんだと結論付けたのです。

Q:映画の中で特に心を動かされたり、共感したシーンがあればお聞かせ下さい。

死んだ友人を食べなければならないかもしれないという考えが頭に浮かび、それを話し合いから実際に実行に移していく過程は映画の白眉というべき点ですが、これは生還者たちにとっても人生最大の体験でしょう。それは結局、人類最大のタブーからの逸脱行為ですから。我々がその話に近づいた時─生還者たちがそのことを考えることと実行することの違いを語ろうとした時が‐最も情感あふれ、困難で、力強い瞬間でした。それは単にインタビューについてだけではなく、一連のイメージをこれらの供述に合わせてどのように調整してゆくかについても同様に言えることです。
若い役者たちやスタッフとともに事故を自由な解釈で撮影していくことはとても難しいことでした。それは冬の午後─土曜日の午後─で、我々はモンテビデオ近郊の砂浜に飛行機の残骸を使って、ほとんどのシーンを撮影しました。生還者の何人かは、妻や子供たちを連れて撮影現場に現れました。そこを訪れ、自分たちの考えたことが撮影されてゆくことはちょっぴり楽しみでしたでしょうし、彼らは(人肉を食べる)という発想が実行されたシーンの撮影に立ち合いに来たのです。それゆえ、これは我々にも彼らにも、とても困難で力の入る撮影でした。何人かは耐えきれずその場を後にしました。何人かはストイックにその場に残り、ロベルト・カネッサ(注6:事故の生還者の一人。フェルナンド・パラードと共に雪山から脱出し、生存者の生還を成功させた。)のように我々のもとにやってきて、そのシーンの再現がもっと正確で信憑性が高まるようにいくつか指摘をしてくれる者もいました。このシーンは、インタビューにおいてもその後の再現撮影においても、最も挑戦的な部分でした。

Q:撮影技術的に挑戦的試みをしなければならなかった部分はどこでしょうか? また、それはどのようにして解決されたのですか?

技術的に一番考えなければならなかったのは、撮影予算からして‐ドキュメンタリーとしては大きいものでしたが、フィクションではありませんので─いかにしてこの閉ざされた世界に息吹を吹き込み、海抜4000メートルの山頂の世界に現実感を与えるかということでした。そこでこの挑戦には、モンテビデオから遠くない場所の海抜2.5メートルの小さな砂丘にアンデスの高地を作ることと、砂嵐を吹雪に変えて見せることが含まれていました。運がよかったのは、この撮影が冬の最悪の時期に行われていたことで、嵐の到来を正確に予測して、この小さな砂丘を十分置き換えることができました。それもスタッフや役者たちの努力とそれにも増して、撮影監督のセザール・シャローン(注7:撮影監督。代表作『シティ・オブ・ゴッド』『ナイロビの蜂)の才能のおかげです。
我々はそれをリアルにではなく、むしろ夢の中のような奇妙な感じに作り上げる必要がありました。それによって観客に、自分たちは今アンデスの高地にいるのか?いないのか?と自問することをやめさせることができるからです。それがうまくいったため、観客は言葉もなく映画のクライマックスの感覚にあふれたこの白い荒れ地の世界に入り込みました。見たところ、それは本当にうまくいきました。そして技術的にも創造的観点においても、使える予算の中で物語のこの部分を表現する方法を見つけることは大きな挑戦でした。今思うと、これが最良の解決方法でしたね。限られた予算しかないと、往々にして想像以上に興味深い解決策を引き出すことに繋がります。
私は撮り上がったイメージの初号を見た時に、生還者たちにこう言ったことを覚えています。「世界中の金を集めても、これ以上うまくはできなかっただろう」と。これは我々が採ることのできた唯一の方法で、最終的にそれが最良の方法だったとわかりました。そして私は他の方法を試すだけの資金がなかったことをありがたく思いました。何故なら、何百万ドルあったとしても、同じようにうまくやれたかまったく確信がないからです。

C R E D I T

監督・脚本:ゴンサロ・アリホン
撮影:セザール・シャローン 編集:クラウディオ・ヒューズ
音楽:フォロレンシア・ディ・コンチリオ 美術:ダニエル・フェルナンデス
提供:熱帯美術館 配給:熱帯美術館/グアパ・グアポ 後援:ウルグアイ東方共和国大使館

2007年/フランス映画/スペイン語/カラー・モノクロ/ビスタ/ステレオ/113分
原題:STRANDED - I’VE COME FROM A PLANE THAT CRASHED ON THE MOUNTAINS
(c) Ethan Productions

http://seikansha.jp/

4月11日(土)より、ヒューマントラストシネマ渋谷他全国順次公開

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2009/03/03/16:26 | トラックバック (0)
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