映画祭情報&レポート
第23回東京国際映画祭(10/23~31)
ベストセラー小説を越えて/コンペティション部門
第23回東京国際映画祭レポート1

夏目 深雪

今年の東京国際映画祭(以下TIFF)のコンペティション部門は『わたしを離さないで』『サラの鍵』などベストセラー原作が映画化されたものの出品、あと近年にない日本映画の充実(『一枚のハガキ』『海炭市叙景』)が目を引いた。アジアの風部門では、特に特集が昨年度の通好みのものから、「台湾電影ルネッサンス~美麗新生代」「ブルース・リー特集」などより幅広い層にアピールするようなものへ変化したように思われた。ワールドシネマ部門も今年は特集こそないものの、スコリモフスキ監督やホセ・ルイス・ゲリン監督などTIFFお馴染みとも言えるラインナップを揃え、もはや洋画配給が厳しい時代のシネフィルの最後の砦のような風格を備えている。予算的には事業仕分けにより全体の三割カットを余儀なくされたというが、それを感じさせない豪華で多彩なラインナップに感じられた。

ベストセラー小説を越えて

矢田部PDが「一般のお客さんも取り込むことも目的として」入れたというベストセラー小説の映画化であるが、コンペ部門の『わたしを離さないで』、『サラの鍵』、そしてワールドシネマ部門の『素数たちの孤独』は、名の知れた俳優が出ているということもあり、観客の間でも好評を博していた。日本でも今年は『東京島』『告白』『悪人』など原作ものの映画化が話題を呼んだり、ヒットしたりした年であった。通の映画好きにとっては安易さを指摘したくなるところもあるだろうが、文芸作品の映画化は昔から広く行われてきたことであり、原作とは別の作品としての輝きを持っている、或いは原作よりも優れている映画も少なくない。しかしそれが簡単ではないことも事実であり、それを再認識させられた3本でもあった。

『わたしを離さないで』
2011年春TOHOシネマズシャンテ、Bunkamuraル・シネマ他全国ロードショー

『わたしを離さないで』
(c)2010 Twentieth Century Fox Film Corporation. All Rights Reserved.
ブッカー賞作家カズオ・イシグロの最新作であり、現代医学に対する警笛を含みながらも、人間という存在に対する深い洞察が光る同名小説の映画化である。アメリカ人マーク・ロマネク監督による映画は、同じ施設で育った少女二人と少年一人の三人組のラブ・ストーリーという側面を強調しているものの、基本的に原作に忠実な作りとなっている。映画を見始めて目を引くのは、語り手の少女キャシーを演じるキャリー・マリガン、勝気で我儘な少女ルースを演じるキーラ・ナイトレイ、二人の少女の間で揺れる少年トミーを演じるアンドリュー・ガーフィールドの三人の配役の確かさであろう。まるで原作から抜け出てきたようなと言っても過言ではない三人の風情は、監督自身が原作の大ファンであり、原作者イシグロも非常に映画を気に入ったというエピソードにも頷かされる。自らの運命に甘んじる彼らを、三人は透明感のある演技で表現し、飼育箱の中で時には争ったり慰め合ったりする小動物のような愛らしさは、物語が進み彼らの苛酷な運命が明らかになるにつれ観客の胸を揺さぶるであろう。

しかし原作の読者にとっては、結末の余韻が引き起こす深みは原作には叶わないと思う人が多いのではないか。これはイシグロの小説の特異性にも原因がある。小説は最初から最後までキャシーの一人称で物語が語られ、その語りの限界性が謎を深め、挟まれる奇怪なエピソードが想像を膨らませる。あくまで彼女らを取り巻く空恐ろしい事実が、小出しにしかされず、終盤まで全貌が分からないところがこの小説の魅力なのである。小説の限界性とそれ故の魅力を最大限に利用したようなイシグロの小説に較べてしまうと、見るだけで様々な事が露呈してしまう映画というジャンルは「隠しておく」ことにおいては分が悪い。結末のシーンの伏線となっている「ノーフォークのロスト(落し物)コーナー」のエピソードがないことも、原作にはあった陰影を欠いてしまった遠因のように思われた。

『サラの鍵』 観客賞、最優秀監督賞受賞

『サラの鍵』
(c)Hugo Films
第二次世界大戦中、ドイツ占領下のパリにて、フランス警察によるフランス系ユダヤ人迫害を中心に、その背景を探るジャーナリストのジュリアと、被害者である少女サラの悲劇を交錯させたベストセラーの映画化。タチアナ・ド・ロネによる原作は、中盤あたりまでジュリアを取り巻く現代の話と、巻き込まれたサラをリアルタイムに追った話が交互に語られる。ジル・パケ=プレネール監督による映画も、都会で恵まれた生活を送るジュリアと、人間以下の扱いを受けながらも必死で家族を守ろうとする少女サラを交互に描写し、その対比のギャップは強烈である。現在と過去が交錯する場として、サラが住むこととなったアパルトマンの納戸は不気味に機能し、徐々に明らかになっていく事実に観客は息を呑む。ストーリーラインは原作に忠実なのだが、サラの夫との齟齬、例えば夫の浮気の描写などを省略するなど、上手く要所を掴んで映像化している印象であった。

印象的なのは、少女時代のサラを演じる女優、成長してからのサラを演じる女優ともに素晴らしいこと。特に後者は、原作よりも悲劇のヒロインとしての神話性を増し、時代、男女問わず関わる誰をもブラックホールのように引き寄せてしまう美しさを説得力を持って演じている。サラに取り憑かれてしまうジュリアを演じるクリスティン・スコット・トーマスも素晴らしい。原作と違い「ドンファンの夫の浮気に悩む妻」ではなくなったことにより、より人間的な深みと安定感を得たジュリアが、過去と未来を繋ぐ命とともに生きていこうとするラストシーンは、深い感動を生む。優れた原作を、ポイントを掴んだ脚色と的確な配役とによって商業性と芸術性を兼ね備えた映画に生まれ変わらせた好例と言えるだろう。

『素数たちの孤独』

『素数たちの孤独』パオロ・ジョルダーノによる原作は、過去にトラウマを抱え、自分の殻に閉じこもる少年マッティアと少女アリーチェの長年に渡る関係を描きイタリアで爆発的なベストセラーとなった。それぞれに襲った決定的な事件により、暗い影を纏うことになった二人の人生を、小説は交互に追う。その繊細な筆致による対比は「サラの鍵」のように歴史の悲劇を照らし出すわけではないのだが、来るべき二人の邂逅を運命的に予感させる。そして出逢いと二人がともに過ごすシーンは、短いからこそ小説全体を照らし出す光のようでもある。 映画は、時系列で進む原作の各シーンを大胆に時制の組み換えを行い、二人の現在時点のクロス・カッティングと同時にそれぞれの過去のシーンがフラッシュバックで現れ、二人の間にやがて起きる亀裂と過去の忌わしい事件が4つ巴で交錯して映し出され、クライマックスを痛切な悲壮感をもって盛り上げる。マッティア、アリーチェともに原作のイメージ通りの配役であることはもちろん、非常に文学的な原作に対し、二人が離れ離れになっていた時に、マッティアは太り、アリーチェは激痩せするといった身体的な演出が目立っていたのも印象的である。原作を持つ映画で、原作の読者に新鮮な驚きを与えるというのはなかなか難しいと思うのだが、この大胆な脚色が、原作者ジョルダーノ氏との共同脚本によってもたらされたということにも驚きを禁じえない。ラストも原作とは微妙に違い、忠実な映画化とは言えない。読者にとって、まるで映画が原作のもう一つのパラレルワールドであるかのような不思議な魅力を持つ映画となっている。

『素数たちの孤独』Q&A
サヴェリオ・コスタンツォ監督とアルバ・ロルヴァケルさん
Q&Aにはサヴェリオ・コスタンツォ監督とアリーチェを演じたアルバ・ロルヴァケルさんが登壇した。原作から時制の組み換えを行っている理由について、コスタンツォ監督は「原作を誠実に映画にするには何かを変えなければいけなかった。原作を読んだ人にも楽しめるような映画にしたかった」と語った。アルバさんに役作り上留意した点について質問が出ると、アルバさんは「アリーチェに対する解釈が、監督と自分とでは多少違いがあった。だんだんと監督の解釈に近付けるようにした」と答えた。音楽についての質問が出ると、監督は時代の雰囲気を出すために80年代のホラー映画の音楽を使用していることを明かした。最後に、何故この原作を映画化したかという質問に、「俳優の肉体に対して仕事が出来る点が気に入った。あと、自分と重なる点があった。私も妹を置き去りにしたことがあるからね」と答え、「今のは冗談なんだが…」と付け加え会場を沸かしていた。

コンペティション部門

他には『そして、地に平和を』(マッテオ・ボトルーニョ、ダニエレ・コルッチーニ監督)のセンスと勢いが感じられる演出力、『ゼフィール』(ベルマ・バシュ監督)のメタファーに溢れた清新な映像美など、若い才能の息吹が感じられる作品に出逢えたのも収穫であった。しかしベストセラー小説の映画化作品が入ったことによって、いわゆる映画祭向きの作品、硬質で噛み応えのある作品とのギャップが目立ち、全体を通して見ると一貫性のなさが目立った気がした。逆に後者の作品の難解さが突出して感じられてしまったところもある。例えば、コソボで売春を強制されている娘を持つルーマニア人の父親の話と、事故で死んだ息子を持つセルビア人の父親の話が交錯する『一粒の麦』(シニツァ・ドラギン監督)は、力作ではあるものの、地理や地域的なコンテキストが頭に入っていないと分かりづらく、そうすると強引さとけれんが気になる作品でもあった。サクラグランプリを受賞した『僕の心の奥の文法』(ニル・ベルグマン監督)にしても、「舞台となる1963年は、67年の第三次中東戦争を前にしてイスラエルがエアポケット的に平和であった時期にあたり、『僕の心の奥の文法』
『僕の心の奥の文法』 (c)Libretto Films - Norma Productions
成長を止めてしまった少年の心を通じて来るべき不穏な時代への抵抗感を描いている」という解説を読めばそうなのかと思うだろうが、映画を観ただけでそのことに思い当たった観客がどれほどいるだろうか。全作品を観れたわけではないのだが、秀作・佳作の数は増えた印象があるので、全体的なレベルは結果として昨年度より上がったものの、突出した一本はなかったということだろうか。一昨年の『トルパン』、昨年の『イースタン・プレイ』(劇場公開時タイトル『ソフィアの夜明け』)のような、突出した一本が満場一致でグランプリを受賞したようには思えなかったのが残念である。

映画はそもそも地域的、歴史的なサブテキストを持っているだけでなく、地域映画史的なコンテキストも具えている。「アジアの先鋭的な作品」に絞っている東京フィルメックスのように、ある特定の地域に絞った方が、観客の理解や親和という点では有利であろう。9月から10月にかけてNFCで行われた「ポルトガル映画祭」のように、過去作品を含めた地域映画史的に重要な作品を抑えたラインナップで、上映作品が次の上映作品と響き合い、「観れば観るほど理解が深まる」セレクションもあるのである。 もちろんTIFFのコンペは世界中の新作をむしろ偏りなく上映するのが目的である。制約もあり、「観れば観るほど理解が深まる」セレクションを求めるのは筋違いの点もあろう。しかし世界中の質もトーンもバラバラの新作を集めて上映することで、人を惹きつける特色が出るのだろうかという問いが存在することも事実である。例えば、バルカン半島の映画はここ十年ほど、『一粒の麦』のように戦争や紛争、或いは移民を題材とした優れた映画を多数輩出している。イスラエルに関しても、サクラグランプリの受賞率は2002年度のニル・ベルグマン監督の『ブロークン・ウイング』、そして2007年度の『迷子の警察音楽隊』と、非常に高いのである。TIFFのコンペの色となり、作品と観客の溝を埋めるような働きかけが、何かできないものなのだろうかと思ってしまうのは欲張りすぎなのであろうか。

(2010.11.10)

レポート1レポート2

第23回東京国際映画祭 (10/23~31) 公式

2010/11/14/16:37 | BBS | トラックバック (0)
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