先の読めない、謎めいた物語を追いかけるうち、それまでの世界観がひっくり返るような事実に直面し、
やがてその事実の背景を知って深い哀しみに包まれ、最後には美しい希望の光がそっと胸に射し込んでくる――。
この映画でシャマラン監督が目指したのはそういう情緒であり、目論み自体はかなりの程度成功していると思われる。
「人は悲しみと無縁の生活を送ることなどできない」というテーゼは、同じくユートピアの崩壊を扱った、是枝裕和監督の『誰も知らない』
をふっと想起させる。
今、世界中の先鋭的な映画監督たちが、「無垢の喪失」を描く背景はそれなりに察しがつくが、作品の主舞台となる村の中では、「赤」
を危険な色として徹底的に排除したり、無垢で平和な村の周囲を赤い衣装を纏った怪物が取り巻いている、といった露骨に政治的な設定に、
9.11以降のアメリカ合衆国に身を置く異邦人、シャマラン監督の地声を聞いた思いがする。そこには涙もある。愛もある。悲劇もある。
もちろん、人を驚かすショッキングなシーンもある。すべてはいつになく真剣な面持ちで語られている。
シャマラン監督は、『シックス・センス』『アンブレイカブル』『サイン』という超常現象をモチーフとした三部作で、
初めは持つことのできなかった「映画」への信仰を、徐々に獲得する過程を綴っている。多くの作り手はごく素朴に
「フィクションというシステム」を信仰し、無心になって映画作りに邁進しているが、彼の場合、その鋭い知性と批評精紳が「フィクション」
のシステムにやすやすと与することを阻んでいたであろうことは想像に難くない。同じ「宇宙人襲来」を扱っても、彼には『インディペンデンス・
デイ』を撮ることは絶対にできない。宇宙人が襲来するというホラ話を、リアリスティックな活劇で物語るなど、
知識人としてのプライドが許さないのだ。
それゆえ、『シックス・センス』では、「幽霊」というありえない存在の者の主観によって物語世界が構築され、
主人公が自分が死者であると知ってしまうことにより――自分は決して純潔無垢な語り部ではない、と自覚することにより――
その世界は内部崩壊を迎える。ここでシャマラン監督は、ミステリーで言うところの叙述トリックを使って、「語り部」という存在の曖昧さ、
不確かさを描いている。それは、「フィクション」を綴る「映画監督」という存在への懐疑にほかならない。『アンブレイカブル』では、
「俺は世界で一番壊れやすい奴。お前は世界で一番壊れにくい奴。俺は悪役。お前はヒーロー」という、
凄絶なまでに頭の悪い妄想を抱くアメコミオタクが登場して、主人公に妄想世界を共に生きることを強要する。
彼の主張は呆れるほど馬鹿馬鹿しいのだが、シャマラン監督はあえて主人公にその妄想を肯定させる。しかし、
その先の物語を語ることはできない。その妄想世界の続きを描くには、まだまだ信仰心が足らないからである。
ところが『サイン』にいたり、シャマラン映画は大きな変容を遂げる。神(映画)への信仰を失った神父(映画監督)を主人公に据えることで、
彼はフィクションへの完全なる帰依を表明したのである。水の入ったコップだの、壁に飾られたバットだの、妻の最期の言葉だの、
些末な小道具や記憶のすべてが、ある一点で主人公を救う小道具となる! 当たり前の話だが、これは作り手が丹念に張り巡らした「伏線」
が為し得たことであり、主人公のメル・ギブソンの信仰していた「神」が奇跡を起こしてくれたわけではない。しかし、メル・
ギブソンはこの出来事によって確かに信仰を取り戻す。客観的に見れば、彼が一連の出来事に「神」を見出すのは、
どう考えても愚かな思い込みなのだが、そもそも信仰とはある種の思い込み抜きに成り立たないものではないか? この映画を通して、
シャマランはそうしたなりふり構わぬ境地に身を投じたのであった。
こうしてすっかり身も心も「映画監督」となったシャマラン監督だが、『ヴィレッジ』でもやっぱり、
これが映画にすぎないことを打ち明けずにはいられなかったらしい。
映画の中に構築された"広大なフィクション"の成り立ちを補足説明してみせるのは、シャマラン監督その人だ。
何かを語り始めた瞬間に結末をばらすことになってしまうので、これ以上は作品内容には触れない。だが、練りに練られた脚本の妙味、
冴え渡る映像表現、美しいヴァイオリンの音色、それから盲目のヒロインを演じるブライス・ダラス・ハワードのみずみずしい魅力、
存在感豊かなホアキン・フェニックス、無垢ゆえに悲劇を招く難役を巧みにこなすエイドリアン・
ブロディといった若手俳優の演技を存分に堪能できる映画でもあり、見ごたえは充分だ。
(2004.9.13)
主なキャスト / スタッフ
TRACKBACK URL: