連載第15回 放送第10話『謎の恐竜基地』(後)
前回、ジラースのエリマキをウルトラマンがもぎ取って〈ゴジラ対ウルトラマン〉が実現化したのは一種のタブーに近かったのではないか、と書きました。僕の映画への興味は、そのタブーへの戦慄から始まっているので、どうもこだわりたくなるようです。
1973年の夏休みに公開された〈東映まんがまつり〉の目玉であり、記憶に残るなかでは初めて映画館で見た映画、『マジンガーZ対デビルマン』。両者が結局は戦わず、協力して敵をやっつけるおはなしにどうにも納得いかず、いとこのお兄ちゃんに訴えたら、にべもなくこう答えられました。
「同じ会社で作ってるからだ」
正確には同じ原作者、同じ制作会社(東映動画)ということですが、自分史上、脳天にイナズマ度(文化部門)においては現在まであれに勝るものはないと思います。映画は大人の都合で作られている、と知る瞬間から僕の鑑賞歴は生まれてしまった。それから数年後、ジャイアント馬場とアントニオ猪木がシングルマッチで決着をつけないのがじれったくてたまらず、また同じお兄ちゃんに聞いたら、答えはこうでした。
「会社が違うからだ」
会社 会社 オー 会社!
会社がちがえば 運命かわる
会社しだいで 未来も決まる
勝負できないワケがある
なかよくするにもワケがある
ワケを知りたきゃ 逆立ちしてみな
ひっくりかえせば 会社は 社会!
つい、井上ひさし風の歌を書いてしまいました。初期戯曲を最近まとめ読みしたもんで。
なにかこう、どうしようもなく制約のある世界という幼い日のイメージの刷り込みが、僕に就職しない生き方を選ばせる遠因になった気はしますが、今は、制約があるほうが正しい、と了解しています。決着を付ける興味より、付いてしまった後の味気無さ、リスクのほうが問題で、ちゃんとした大人ほどそれがよく分かっていますから。
では第10話における〈ゴジラ対ウルトラマン〉の実現が、スタッフの若気の至りゆえかといえば、そうも断定はできない。ウルトラマンが勝つ姿に伴うショックはやや想定外の強さだった気がしますが、ゴジラの着ぐるみが〈ウルトラ〉シリーズで流用されるのはこれが初めてではありません。『ウルトラQ』第1話に登場する怪獣ゴメスがそうでした(興味のある方はどこかでスチールを見てみてください)。 Q、初代マンと続く初期〈ウルトラ〉シリーズには、実際的な製作の事情とは別に、その世界観の構築のためにも、ゴジラの体を使わなくてはならない必然があるのです。ずばり、テーマの移植です。
1954年に公開された『ゴジラ』。本連載を覗いてくださるような方なら当然すでに(何度も)見ているものと判断して、サクサクと話を進めさせてもらいますと、公式的によく言われる「怪獣映画でありつつ原水爆への不安、平和への希求という真摯なテーマを持った傑作」という評価が、どうも僕には昔からピンときません。いや、そういう真摯な思想がかなり執拗に盛り込まれ、後続作にはない重い熱気を孕んでいる作品なのは確かです。しかし、そのテーマの具現化のために大掛かりな本格特撮にチャレンジしたという順番では、ないのでは?
記録によれば1952年、『キング・コング』(33)のリバイバルが日本でも配給され、評判をとっています。同趣向の大作を日本でも、というアイデアの立ち上がりにはこれの影響が大きかった、と僕は予想しています。まずは、何か思い切り円谷英二の特殊技術を生かせる題材を、ということです。もちろんそこからスタートした企画設計の段階で、本格国産怪獣映画第1号を作るならば被爆国としてのリアリティを芯にせねば、とハートの部分が固められていった。
僕が言いたいのは、評価ポイントの抽出の問題。「ゴジラの1本目には怪獣映画なのに深いテーマがあるんだぞ!」という誉め方には、文学的テーマを押し出した映画に比べてランクが低いとあらかじめ承認しているような、誉めているようで実は足を引っ張るところがある気がして仕方ないのです。例えば人間の場合。「あいつは実は生まれ育ちが悪いけど、東大を出た秀才なんだよ」という人物評を耳にしたら、どうでしょう。なんとなく、イヤな気持ちになりませんか。
怪獣映画、特撮映画は他ならぬファンによって差別されてきたジャンル、とまで言うつもりは……あるんだな、やはり。僕自身がまさに隠れキリシタン状態、踏絵をバンバン踏んできて、その罪悪感が積もり積もってこんな連載を始めているわけですから。
では、従来の映画史的定評を批判する僕自身は、『ゴジラ』をどう捉えているのか。全体にジュール・ヴェルヌなんだねえ、とつくづく思ったのが、去年、何度目かで見直した時の実感です。
ゴジラの発見に科学者としての学術的興味と興奮が先に立ち、捕獲を望んでしまう山根博士の邪気のなさと懊悩は、「地底旅行」のリーデンブロック教授とよく似ているところがあります。博士の傍に娘と青年を置く爽やかな配置も、「地底旅行」と通じる。芹沢博士のほうは、「海底2万哩」のネモ艦長と「悪魔の発明」の発明家を融合させたようなキャラクター。芹沢博士が密かに作っている、液体中の酸素を全て破壊する薬品オキシジェン・デストロイヤーは、まさに「悪魔の発明」と言えましょう。
ヴェルヌみたい、とは、『ゴジラ』の芯にあるのは、あくまで明朗でなおかつ教育的・教訓的な空想科学精神ということです。ヴェルヌは、少年少女向けに科学をわかりやすく教える本を出す出版社からの原稿依頼をきっかけに、人気作家となった人。しかし、戦後の日本にはまだまだそういう世界を描けるだけの土壌は無く、映画による前例も少なかった。演出が全体におっとりと明るいのに急に激しく恐怖映画調に傾いたり、ムラのある感じなのはそのせいもあったかと僕は想像しています。ゴジラが街を破壊する大トリック撮影も、戦時の記憶がまだ生々しく残っているところで作れば、スタッフやキャストはどうしても空襲や艦砲射撃から逃げた思い出を重ね合わせることになる。
つまり敗戦国、しかも被爆国の映画がヴェルヌらしさを導入しようと思ったら、一度は生々しいエクスキューズを踏まえた、徹底して深刻なものにならざるを得ないのです。そうしなければオキシジェン・デストロイヤーのような突飛な発明品を登場させられません。ただ、登場したとしてもゴジラの、奇抜なモンスターでありつつ〈日本の暗い記憶〉そのものでもあるという、いくらでも深読みできてしまう暗喩のド迫力にはすっかり負けてしまっているのですが。
エクスキューズが必要だった点はゴジラも同様で、ゴジラが最初に上陸する大戸島にはもともと、大昔に「ごじら」(劇中には漢字は出てこず)と呼ばれる怪物が現れた言い伝えが残っていたのでした。伝説を今に伝える神楽が神社で奉納される、伝統芸能の場面まで用意する念入りさにはちょっとゾクゾクさせられるところがあります。モンスターを国産化、MADE IN JAPAN化するためには、民俗伝承の装置を借りての濾過が必要だった。その心理的手間を経て、ようやく怪獣というコンセプトが立ち現すことができた、という面白さ。だが、ゴジラそのものが姿を現すと、後は伝承そのものはすっかり出てこなくなります。
前半の古くからの伝承、後半のオキシジェン・デストロイヤー。どっちも同じように浮いていながら同居している点を噛み砕くと、『ゴジラ』のストレンジな味わい、張りつめたテンションのもとがだいぶ見えてきます。
1本の映画のなかで、ヴェルヌ的な空想科学精神と日本神話(ゴジラ=悪霊または鬼)が衝突を起こしている、ということです。
そしてこの緊張は、初期〈ウルトラ〉シリーズのテーマそのものではないか。
ここで、ようやく第10話に戻ります。要するに僕は、この「謎の恐竜基地」は『ゴジラ』の変奏を相当意識したエピソードだと思ったわけです。
恐竜への過剰な研究愛が身を滅ぼす結果につながる中村博士は、いわば、〈実行に移してしまった山根博士〉。なれば、ジラースがゴジラの着ぐるみなのはテーマの必然です。しかし、ジラースを倒すのは、使いようによっては大量殺人兵器になりかねないオキシジェン・デストロイヤーのようなものであってはいけない。
そこで、ウルトラマンなのです。宇宙からやってきた、地球の平和のために戦う超人。危難の際に現れてくれる、人知を越えた存在。ウルトラマンというヒーローの認証のためにも、実質上のゴジラと戦う、というタブーに近い行為は避けては通れない通過儀礼であった……。
そこまで掴めてくると、ウルトラマンの設定の初期には、前回書いたようにやはり、地を(もっと言えば日本を)治めるために天から降った若い闘神のモデル・イメージが入り込むだけの余地があったことが見えてきます。
ウルトラマンがジラースを相手にした際の、思いがけないほどやんちゃな態度には、子どものように粗暴なところがあるもんだから高天原を追い出され、下界の出雲の国に下ったスサノオノ命をオーバーラップさせるところがないでしょうか? スサノオノ命が退治する八またの大蛇、あれは日本に現れた最初の怪獣なのかも、と仮定すれば、さらに想像は広がります。
しかし、しかし。ここでひとつの問題が生じます。この第10話自体は、怪獣を倒すのはオキシジェン・デストロイヤーのようなほとんど化学兵器に近い危険な薬品よりもウルトラマンのほうがふさわしい、と『ゴジラ』からのテーマ引き継ぎの儀式を描き込んだ、見応えのあるエピソードです。
でもそうなると、最新の未来派スペクタクルとしてスタートしたはずの『ウルトラマン』が、一種の神頼みによる解決を民話のように寿ぐ、ものがたりの先祖返り現象を起こし、科学特捜隊の存在理由が揺らいでしまうのです。ウルトラマンと科学特捜隊の間にすら、相容れないものがある。その対立構造が、ここにきて芽吹いてしまった。
ウルトラマンの(おそらく)先祖の存在を示唆した第8話にこの第10話と、メインライター・金城哲夫がシナリオを書いたエピソードには、自分で考えた『ウルトラマン』の設定そのものを揺さぶったり転がしたりしてダイナミズムを出したい意図を濃厚に感じます。その暴れん坊な面白がりかたは、まさしくSF作家の態度です。
イデ隊員と一般人女性とのデートへの興味がポイントだったはずなんですが、なにしろ後半の意味合いがスゴイもんですから、すっかり遠くなってしまいました。しかも冷静に考えると、イデ隊員、たいしたセリフはほとんど話していません。
今回の語録、苦し紛れに選んだのはこれ。
イデ隊員のおとこ語録:第10話 「カラスやヘビを育てる程度では我慢ができなくなったんだよ、モンスター博士は」
ジラースがウルトラマンに倒されたあとのつぶやき。中村博士(実は違う人物の変装)のジラースへの執着と破滅に、一同が粛然となる終幕の場面です。あくまでストーリーを総括するためのセリフで、イデ隊員本人の心情から出たものではないと思い、消去法で選んだのですが……、待てよ? 総括セリフならば、本来はリーダーであるムラマツ・キャップが言うのは適当なのでは。または、ウルトラマンから戻ったハヤタ隊員に言わせてもいいわけです。それを、イデ隊員が言う。なおかつ、非常にシリアスな面持ちで。
そう考えると、なかなかどうして消去法どころか、イデ隊員なればこその言葉だなあ。ハヤタ隊員が「狂ってる」と一刀両断にした中村博士のマッド・サイエンティスト振りを、イデ隊員はある程度理解できるのです。学術的情熱の喜びと視野狭窄の危険、一線を越えれば禍いを呼ぶ恐ろしさを、実感として受け止めることができる。実は第10話までのイデ隊員は、パブリック・イメージのひとつである新兵器発明家の側面はまだ見せていないので、ここでのイデ隊員は職業的共感ではなく、あくまで人柄そのもので言葉を発しています。
さらに、総括セリフに含まれた皮肉の味わいも吟味すれば、イデ隊員が初めて(ここまで隊員達の前では隠してきた)内面にあるニヒリズムをついうっかり表に出してしまった、たいへんに重要な場面なのかもしれません。
(つづく)
( 2010.11.12 更新 )
(注)本連載の内容は著者個人の見解に基づいたものであり、円谷プロダクションの公式見解とは異なる場合があります。
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