今週の一本
(2004 / 日 / 東陽一)
風の音がやんだ時、物語が始まる

膳場 岳人

 沖縄の海に面した崖の中腹に風葬場があり、こめかみに銃創の跡が残る髑髏が置いてある。 海からの強い風がこめかみの穴を通り抜けるとき、悲鳴にも似た音が島中に響き渡る。島の人々は畏敬を込めてそれを「風音」と呼んだ――。

 このきわだったイメージが作品世界の中核に据えられた時点で、映画はすでに勝利を収めている。頭を撃ち抜かれた髑髏が、 凄惨をきわめた沖縄戦の戦死者のそれであることは想像に難くないし、「反戦」のメッセージを訴える上で、 これほど映画的に主題を象徴する見事なアイテムはない。この髑髏の周囲に、戦争体験者や、戦争によって愛を引き裂かれてしまった女性、 戦争を知らない子供たち等々、それぞれに異なる事情を背負った人物を手際よく配置しスタンダードなドラマツルギーを手堅くなぞっていけば、 必ず良質な反戦映画が出来上がるはずである。その大方の予想を裏付けるように、『風音』の基本設定は非常にバランスが取れている。

 物語は、突然、風音がぴたりとやんでしまったある一日から幕を開ける。その村には、失業中の夫の暴力から逃れ、 幼い子供の手を引いて帰郷した女がいる。戦争中、浜に漂着した特攻隊員の遺体を風葬場へ埋葬した、寡黙な漁師がいる。 愛する従兄弟を沖縄戦で喪い、六十年が過ぎた今、彼の遺骨を探してはるばる東京から沖縄を訪れた老女がいる。 異邦人の登場に口さがない噂を囁く、地元のオバちゃんたちがいる。土地の血塗られた歴史など知らぬ素振りで、 陽光の下を無邪気に駆け回る子供たちがいる――。

 それなりに平和だった村の暮らしだが、生活の中にごく当たり前に存在していた風音が突然消えた時、 それは村に居合わせた人々をふいに立ち止まらせ、内省へと誘い、 決して明るいものではなかったそれぞれの過去と記憶とを脳裡に呼び戻すことになる。

 風音が止むのと時を同じくして村に現われた東京の老女は、従兄弟との淡い恋の記憶と、 家人から爪弾きにされている現在の寂しい家庭環境を溜息混じりに振り返る。そこには刻々と近づく死への抗いと諦念とがゆるやかに蟠る。 帰郷したヒロインは家を出た理由を痛ましい回想によって観客に打ち明けるし、土地の子供たちと順調に友情を育んでいたかに見えるその息子は、 幼い心を父親による暴力によって深く傷つけられている。髑髏の由来を知る老漁師は、当時の戦争の記憶をしばしば脳裏に蘇らせ、 自らの歩みの確かさを再確認する。こうした背景説明があらかた終わる頃、映画はその半ばをとうに過ぎている。人物同士が対立したり、 あるいは和解したりしてドラマが進行するのではなく、その場に立ち尽くしている人物の内省そのものが、この映画の肝になっているのである。

 映画が撮影された土地の区長さんだという、演技経験ゼロの上間宗男氏が滋味深く演じる老漁師は、 加藤治子が儚げな面持ちで探す従兄弟の墓の在り処を知っており、あまつさえその遺品すら隠し持っている。だが、 その事実を決して彼女に伝えることはない。彼は頑なに沈黙を守り通すことを自らに課しており、 それがいかに非合理的な結果に繋がろうが頓着しない。彼が真相を告げ、加藤治子の積年の思いを完遂させてあげれば、 なるほど観客は納得するだろう。六十年前に成就しなかった恋が、あたかも平成の世になって成就する、 とでもいうような美しい展開もあったかもしれない。しかしそんな出来すぎた展開はこの映画にはない (ある次元において確かに彼らは再会を果たすのだが、それは現実のレベルにおいてではない)。単に反戦を謳うためだけならば、 上間氏におもむろに口を開かせ、加藤治子に従兄弟の墓前で泣き崩れてもらえば、万人に「反戦」のメッセージを訴えかけることは可能だ。 しかし、映画の根底にあるのは、「戦争」という大いなる悲劇ですら、永遠のように続く人類の営為の一断片に過ぎない、 という非常に成熟した世界観である。

 『風音』は優れた反戦映画の条件をまちがいなく満たしているが、それに終始しないだけの勇気を持った映画である。

 東陽一監督が70年代に放った、『サード』や『もう頬杖はつかない』といったATG時代の作品が描いたのは、 反省もしなければ成長もしない、若い男女のあてどのない生活の記録であり、すなわち現実世界に有象無象に棲息する、 無名の若者たちの実相だった。田中裕子主演の『ザ・レイプ』は、性犯罪の被害に遭った女性が裁判でのセカンドレイプに苦しむ、 という社会派ドラマのように見える。しかし"社会派ドラマ"という括りはこの作品の本質をいささかも伝えてはいない。 人生を寄る辺なく浮遊していた女性が、いかに個としての輪郭を掴むかという成長物語であり、 成熟した男女の恋がいかにして終焉を迎えるかという、優れた恋愛映画なのだ。近作『ボクの、おじさん』は、 強盗未遂事件を起こした14歳の少年とその叔父との心の交流を描くというごくスタンダードなプロットだが、 きっと奇人の叔父との交流で少年が成長するのだろう、というこちらの予想を見事に裏切り、二人が心の闇の部分で深く共鳴してしまうという、 予想だにしない展開で見る者を驚かす。

 監督の作品に見られる定型からの逸脱は、ありきたりな物語への反発というより、「人間は自分たちが考えているよりも、 ずっと自由な存在ではないだろうか?」という、シンプルな問いかけが為すもののように思えてならない。 この世に存在する物語のパターンなど限られているにもかかわらず、映画史は物語の巧みな変奏によって、 あたかも新しい物語が次から次へと誕生しているかのごとく振舞ってきた。先鋭的な作り手やまっとうな批評家は、「新しい物語はない」 という認識から今もその偽善を暴きつづけているし、東監督もまた、第二作目のメタ映画『やさしいにっぽん人』に見られるように、 批評的な資質を十分に有した映画監督だと思われる。しかし監督は自意識を満足させる知の温床を捨て去り、自らの生の実感に基づいて、 新しい物語が生誕する可能性を求め、あがきつづけることを選択した。こうした戦いの軌跡は、 三十五年間に及ぶ多彩なフィルモグラフィにくっきり「自由」の文字を刻みつけている。

 『風音』においても、物語の優等生的なまとまりの良さは攻撃的なまでに排除されていく。 それはヒロインのつみきみほの突発的な行動とその後のすべての展開において顕著だ。そこには、沖縄映画=反戦映画という図式も、 潮風と泡盛とエイサーと地元の善男善女によって都会から来た者が癒されるという、近年流行の「癒し系映画」の浅薄さもない。 つみきみほの行為と、その後始末をするある人物のとった行動の是非は、劇場で見て確かめてほしい。 当初そこにもっとも引っ掛かりを感じた筆者だが、その事件がいったんの収拾をみせ、ふたたび「沖縄」 という大局的な視点へと映画のまなざしを還していったとき、倫理上の是非であるとか、シナリオとしてのバランスとか、 「人間としてこうあるべき」といった思い込み、あるいは人間へ対する「思い上がり」の一切は霧散してしまった。 時間にすればわずか十分にも満たないこの終盤の展開は、意味の一切を説明せず寡黙である。しかし、 その寡黙に込められた人間存在へのまなざしは、えもいわれぬほど自由かつリアルだ。楽園に暮らす純朴な仙人たちの話を語っているのではなく、 欠点だらけの土地に暮らす欠点だらけのごく当たり前な人間たちの姿を切り取ったこの映画は、 心の奥深い部分へと不思議な風の音を鳴り響かせている。すべてが終わり、 子供たちがのんびり釣りを楽しんでいる静謐なラストシーンの魅力は筆舌に尽くし難い。

(2004.8.2)

2005/04/30/19:17 | BBS | トラックバック (0)
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