(2003 / フランス / プリシャール・ベリ)
ぼくセザール 10歳半 1m39cmの振りをさせられました

百恵 紳之助

 子供の目線に立つとはどういうことか。 物理的にカメラを子供の目線までおろして元気良くぶん回すことなのか。明らかに違う。 そもそも子供の視線で物事を描くにはえらい謙虚にならなければならないだろう。 子供なんていう人間でも何でもない生き物と正面切って向き合いながら映画を作るのは非常にしんどい作業のような気がする。で、 この映画は半端に子供と格闘しているがゆえに観ていてちぐはぐな感を拭えなかった。

 映画の前半はセザールを取り巻く状況、特にセザールから観た父親を描く部分が多い。この父親がよく「分からない」のである。良い意味で。 共同経営者という言葉は出てくるが、いったい何の職業についている父親なのかも分からないし、母親方の祖父母の家に行っても 「渋滞に巻き込まれるからすぐ帰る」なんて言ったりする。
子供にとって親父が何をしているのかは非常に気になることだ。たまに警察が父親を尋ねてきたりもする。このへんの理由も明かされない。 子供はますます気になるし心配にもなる。あげく父親はどこかへと旅立っていく。大人はいつだって子供に説明不足だ。 刑務所に入ってしまったと思っても当然である。子供は勘ぐりすぎるくらい勘ぐる。そしてそんな父親を励まそうと、安心させようと手紙を出す。 だが父親はただの出張だった。ここらへんまでは「何も分からないながらも、勝手に動く大人たちと無意識的に何とか共存しよう」 という子供を描いて、割とうまくいっていると思う。

 戻って来た父親はセザールの勘違いを聞いてセザールを殴る。え?と思う。笑ってすまさせられることじゃん。と思う。 セザールがこの父親を分からないように観客も分からなくなってくる。 そして作り手たちも分からないという立場に立って映画を作っているように思える。が、そんな謙虚な姿勢はすぐに崩れる。「分かんねーから、 やーめた」と映画の作り方を変えたかのように、 後半の友達の父親をロンドンで探すという宣伝文句にあるようなプチ冒険に突入させていくのである。

 結局、父親は友達の前でも息子を殴れるようなひどい父親にしか見えず、母親は何を考えてるんだかよくわからない人のままだ。 これが子供の視線から見た大人ならば、子供をなめんじゃねーよの一言しかない。

 で、後半のプチ冒険だが冒険がプチになればなるほど単純明快な動機が欲しくなるのだが、それがよく分からない。 死体を探しに行くだの友達に借りたノートを返しに行くだの子供ならではの動機を求めてしまうのはヤボなのだろうか。 無理矢理ロンドンに連れっていった感じがする。もう完全に大人が子供を動かすために都合よくセッティングした状況に見えてしまうのである。 こうなってくると子供の映画は退屈極まりない。だいたい子供の味方になる物分りの良い、 大人の世界からは浮いている大人なんてホント大人が作り出した都合のいい人物の最高峰だ。 そういう大人を出さざるを得なかったということである。
カッコつけられないなら最初からおもいっきり子供向けの子供映画を作れと言いたい。

 あと、十歳半といえば小学校三年生だ。マ○コよりは断然オッパイだろ。 図で絵を描いて悩んでる暇があればひたすらオッパイ追い求めて色んなことするって。

(2004.8.8)

2005/04/30/19:19 | トラックバック (0)
百恵紳之助
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