
余計なお世話かもしれないが、前作の『阿賀に生きる』を観た上で、『阿賀の記憶』を鑑賞することをおススメする。
感性で分かる・分からない以前の問題としての「前提」を踏まえておかないと、まったく違った捉え方&理解になってしまいそうだ。
さいわい、『阿賀の記憶』を上映するポレポレ東中野では、『阿賀に生きる』も同時上映する予定だそなので、是非『~生きる』
を観ていない人は、こちらのほうから「阿賀ワールド」に没入して欲しいと思う。
まずは、軽く『阿賀に生きる』について。
これは1992年に公開された、新潟県の阿賀野川のほとりで撮影されたドキュメント・フィルムだ。
佐藤真監督をはじめ、7人のスタッフが3年もの間、阿賀野川のほとりで実際に暮らしながら、
阿賀野川流域に暮らす人々の生活をフィルムに焼き付けた。
山間の田んぼで稲刈りをする夫婦。
木舟を作る大工。
餅つきの職人夫婦など、川筋に暮らす人々の姿を静かに、そして丁寧に追いかけている。
新潟水俣病という重く暗い現実が背後には横たわっているにもかかわらず、老夫婦らのやりとりは、時にほのぼの、時にユーモラスで、
場面のところどころでクスッと笑ってしまう箇所も多い。
こういう言い方しちゃ失礼かもしれないけれども、都会育ちの私にとっては、秘境の人の生活ぶりを覗く興味と楽しさもあったことは否めない。
『阿賀に生きる』を観ると、多かれ少なかれ、へぇ日本にはまだこのような場所があるんだ、という素朴な驚きを感じる。
そして、この映画が完成してから、10年の歳月が流れた。
映画に登場した人々の多くは鬼籍に入り、かつての田んぼは荒地になった。
10年前に息づいていた彼らの痕跡を丹念に追う映画が、今回の『阿賀の記憶』だ。
幸い、私は『阿賀の記憶』の前に、『阿賀に生きる』のほうも試写会場で観ることが出来たので、『記憶』
のほうにすんなりと意識を移行することが出来た。
しかし、多くの人は、『阿賀の記憶』の段階から試写会場にやってきていたので、半分近くの人は、寝ていたようだ。
イビキすら聞こえたぐらいだ。
それぐらい、『阿賀の記憶』は、静的な映画なのだ。
さらに、ドキュメント色の強かった『生きる』に比べると、今回の『記憶』は限りなく、"映像による散文詩"ともいうべき内容。
続編だが、手法やコンセプトは、前作とは著しく異なるのだ。
ひたすら、光と風景によって綴られる、映像のフラグメントから、ある種の特別な感情を喚起する仕掛けになっている。
だから、観ようによっては、心地よい「映像のBGM」にもなりうる危険性も秘めており、だからこそ、イビキな人も出てきてしまったわけだ。
しかし、『生きる』を観た後に『記憶』を観ると、状況は一変する(はず)。
現世(うつしよ)の儚さのようなものを、静的な画面と、執拗なほどに動かないロングショットが重くこちらに語りかけてくるからだ。
ドキュメントタッチの『生きる』のほうは、老人たちのユーモラスな会話も多く、ほのぼのテイストも強かった上に、
強く逞しい老人たちの動く姿からは、生命力や躍動感すらも感じた。
だから、約2時間近い上映時間もさほど退屈せずに鑑賞できる。
しかし、今回の『記憶』は、かなり雰囲気が異なり、言ってみれば、10年前に作った『阿賀に生きる』という映画と、
映画の中に封じ込めた人物と風景に対しての葬送式といったニュアンスが強い。
たった10年の歳月でも、人はこの世からいなくなるし、手入れをしない田んぼは簡単に荒れ果てる。
何も変わらないように見え、まるで時間が止まってしまったかのような阿賀の風景も、時間の堆積が残酷なまでに、人も環境も変えてしまうのだ。
変わらないのは、雄大な阿賀野川の流れ、ぐらいなもの。
荒地になった田んぼや、死んだ老人たちの面影、響きわたる生き残った老人の歌、仏壇とストーブの上のヤカンを、
これでもかというほどのロングショットで見せるからこそ、世の諸行無常と同時に、変わらない悠久さのようなものも同時に強く感じる。
ただし、これは『阿賀に生きる』においての元気な老人たちの姿を見たからこそ感じる感覚なのだ。
『阿賀に生きる』を観ずに、いきなり湯気の出ているヤカンの姿をじーっと見ても、何の感慨もわいてこない可能性がある。だからこそ、まずは
『~生きる』のほうを見た上で鑑賞したほうが良いんじゃないかと、私は思うのだ。
クラシック鑑賞でも、テーマを知った上で変奏曲を聴いたほうが、より変奏曲の意図や良さが理解出来るように。ジャズにおいても、
スタンダードの原曲のメロディを熟知してこそ、崩しの妙味が味わえるように。
監督の意図はもっと別のところにあるのかもしれない。
しかし、さきほど、私が葬送と書いたのは、逆光の多い、眩いショットの連続が、
まるでこの世とあの世の境界線を曖昧にボカしているように感じたからかだ。
というのも、個人的な体験を書くと、私の祖父が亡くなった際、霊柩車の助手席に骨壷を抱いて座っていた私に常に降り注いでいたのは、
桜並木の枝の間から眩いばかりに降り注ぐ、眩しすぎる春の陽光だったから。
この目も眩むほどの真っ白な光は、爺ちゃんが旅立った「あの世」と、私がいまだにへばりついている「この世」との境目を、
意識の中で奇妙にボカす効果があったのだ。
映画の前半と、後半に登場する木漏れ日からの光、
それも逆光により画面が真っ白になるのも厭わないほどのおびただしい量の光をスクリーンから浴びると、どうしても、
爺ちゃんの葬儀の後に浴びた桜並木から降り注いだ眩い陽光を思い出してしまうのだ。
我々は確実に年をとるし、周囲の環境も変わらないようで確実に変わってゆく(たとえ変わらないと思っていても)。
「そんなの当たり前だろ!」って意識の上では思っていても、
もしかしたら明日自分が死ぬかもしれないということすら腹の底から感じることの出来ない私にとっては、『阿賀の記憶』は、
かなりリアルに堪えた。
行ったことのない、新潟県の阿賀野川の流域の風景、息遣いを全身にたっぷりと浴び、
なんとも形容のしがたい無常感をたっぷりと味わうハメになってしまったのだ。
良い映画に違いない。
しかし、鑑賞後、こんなに深いため息をつかせた映画は始めてだ。
(2005.3.9)
『阿賀の記憶』 監督:佐藤 真 撮影:小林 茂 2005年5月下旬より、ポレポレ東中野にてロードショー |
主なキャスト / スタッフ
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