「アップルシード」を皮切りに、「イノセンス」「スチームボーイ」
と世界的に注目されるアニメ映画の公開が相次いだ2004年。そんなアニメ・イヤーの取りを務める形となる宮崎駿の「ハウルの動く城」
だが、筆者の周りからは余り好意的な声が聞かれない。「――観ればわかりますよ」そんな意味深な言葉を受けながら、
筆者も劇場へ足を運んでみた。そして、その言葉の意味するところが何とはなしに理解できたのだった。
なるほど、本作は確かに「ヌケ」が悪い。その上、"説明"というものを極力省いているために、普通の「アニメ」
と同じ感覚で観てしまった者は、どこか釈然としない感覚が後を引くに違いない。そう、確かにこの作品には不親切なほど説明が不足している。
だが、注意深く観ていくと必ずしも描かれていないわけではない事に気がつくことだろう。
物語の骨子は極めてシンプルなのだ。下町のちっぽけな帽子屋で、退屈で閉塞しきった日常を過ごしていたソフィーが、
悪い噂のある魔術師ハウルと出会い、共に生活することを通じて、「日常」に目を開いていく――大雑把に言えばこれだけに過ぎないのだから。
ただ、宮崎駿はそうした状況説明を、ソフィー自身に語らせるということをしない。その結果、本作は言葉に頼らず、映像に語らせる、
という至極映画的な方法を多用することになっているのである。
この映像のみによる婉曲的な表現が駆使されているのが、ハウルの登場とソフィーが老婆にされてしまうまでの冒頭であろう。
この宮崎駿的なテイストが横溢した導入部分は、さらりと描かれているようで、その実、作品の世界観とソフィーの置かれた状況、
ハウルという謎めいた存在の魅力、その全てがほぼ完璧に把握できるように出来ている。
特にここではソフィーが周囲の空気に打ち解けず孤独の影がある少女であることや、どうやら「家族」はいるけれども、
血縁者はいない天涯孤独の身の上らしいこと、帽子屋を続けるのは父親が残してくれた店だかららしいこと等々、
物語の背骨にあたる部分がさり気なく描き込まれており、それらを間接的に描きながらも、
後々の展開でそれとわかるようにきっちり伏線を張り巡らされていることはもっと注目されていい。
ただ、そうしたソフィーの取り巻く前提的な状況などは、一切「説明」されない。台詞上でも直接的には語られず、
ただ台詞の端々や映像という断片的な情報から類推、再構築していかないといけないので、
そうした表現に慣れていない者には些か厳しい部分はあるだろう。例えば「老婆化の呪い」などは、その典型と言える。
この呪いについても最後までまともな説明は殆どなく、寝ている時は呪いの効果が及ばなかったりと謎めいた表現しかなされないのだが、
上述のようなソフィーの前提条件を踏まえて類推していくことで、初めて「老婆化の呪い」の意義や意味が見えてくるといった具合なのである。
全ての表現がこのようである、とは言い切れないが、
近年の映画監督にすら見出すことが難しくなってきた映像に対する絶対的な信頼感がなければ、このような手法は取れまい。
監督のそのような心意気を汲んで、できれば我々も映像に「対峙」する心構えを持って作品に臨む必要があるだろう。
とは言うものの、そうした間接表現の多用が全て成功しているわけではない。物語の通奏低音として「戦争」
という大きな枠組みが設定されているのだが、戦争が起ころうとしている不安と熱狂、といった部分は画面から実によく伝わってくるものの、
それが物語の核心部たる「ソフィーの物語」とリンクしてこないのである。通常の作劇では、
ハウルの存在を媒介にして戦争とリンクしていくのが定石だが、ハウルが夜な夜な何をしているのか、
何をしようとしているのかの説明が一切ないために、本作ではハウルの存在が常に宙吊りにされているという奇妙な構造をもつに到っている。
つまり、「ソフィー」「ハウル」「戦争」という物語を構成する三つの要素が、
それぞれ独立して描かれているせいか(ハウルと戦争は辛うじて結びついてはいるが)、
物語の核心部であるはずのソフィーが絶えず物語世界の周縁部に取り残されている、世界のうねりに対してどこまでも傍観者にしかなりえない、
という極めて現実的だが、非物語的な状態のまま物語の大枠が進行していくことを余儀なくされているのである。
そこにハウルの秘密や戦争によって危機に瀕してそうな世界の話を加えたところで、それらはどこまでいっても「ソフィーの物語」
の遠景にしか見えないのはある意味で当然と言えるだろう。
結局、本作は下町の帽子屋を中心にした、ちっぽけな世界で閉塞しきった少女の世界だけをしか描いていないという意味で、
自意識の流れを直接表現することこそないものの、セカイ系と呼ばれる作品に極めて近いものとなっている。
もしかしたらそこかしこに見受けられた「戦争」描写すらも、「老婆化の呪い」と同様、
ソフィーの内的世界を照らし出す喩でしかないのかもしれない――などと秘かに思ったのだが、筆者の考えすぎだろうか。
尤もそんな風に眉間に皺を寄せなくても、それなりに楽しめてしまうのが宮崎駿の宮崎駿たるゆえんだろう。
ずば抜けた爽快感やカタルシスは得られないにしても、ただ「物語」
をなぞっていくだけでは汲み取りきれない深さのある作品であることは間違いない。
(2004.12.9)
主なキャスト / スタッフ
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