米犯罪史上初の女性連続殺人犯としてその名を知られるアイリーン・ウォーノスを、
犯罪実録風に描いた本作は、しかし、その禍々しいタイトルに反して実に痛々しい作品である。タイトルの「モンスター」とは、
事件が発覚した際、驚きと恐怖を込めてマスコミが命名したものなのだろう。7つの殺人を繰り返した冷酷非道な殺人犯が、
意外にも女性であったことに対し、当時の社会が受けた衝撃の大きさをこの渾名は如実に伝えている。本作はその「モンスター」
が如何にして生まれたのかを炙り出している。
物語はアイリーンが「モンスター」と呼ばれる直接の契機となる、セルビーとの出会いから始まり、最初の殺人、逃避行、繰り返される殺人、
そして逮捕に到る様子をじっくりと冷静な眼差しで描いていく。その合間を縫うように、
アイリーンとセルビーの間に存在していた心理的な葛藤と乖離、ギャップを織り交ぜることで、
アイリーンが犯した犯罪の構図を巧みに浮き上がらせてみせている点が秀逸である。それは、彼女の犯罪が紛れもなく「愛」
によって引き起こされたということであり、「憎悪」は寧ろ犯行を正当化する為の方便でしかないということである。
冷血なだけの異常な殺人鬼という連続殺人者のイメージを排しつつ、悲劇の主人公然とした美化もすまいとする監督の心意気には好感が持てた。
ただ、そうした姿勢に好感は持てるのだが、それが作品として上手く噛み合っているかというのは別の話だろう。本作で強調されるのは、
売春婦や同性愛者など、異端者に対する偏見を隠し持つ社会の閉鎖性であったり、アイリーンの悲惨な生い立ちであったりするのだが、
肝心のアイリーンの内面は余り掘り下げようとしない。それは恰も、
そうすることで徒に観客の同情を誘ってしまうことを恐れているかのようでさえある。アイリーンの内面を描くことは、
彼女の被害者としての側面を描くことでもあるだけに、通俗的な美化は避けたいという意識が強く働いたのかもしれないが、
この点はどうしても腰が退けていると言わざるを得ないだろう。特に本作をアイリーンとセルビーの「ラブストーリー」
として描こうとした時点で、ある種の美化は避けられないのだから。
思うに、この作品のドラマの本質は、セルビーの存在によって満たされていったアイリーンの空虚な心の内側を、
一つ一つ描き出していくことにこそあったように思われる。と言うのも、物心がついた頃から性的に搾取され続けてきたアイリーンが、
愛というものがどういうものか知らなかったことは想像するに難くないし、当然愛する歓びも愛される充足感も、
自分の存在を誰かに受け止めてもらえる安心感も、愛情に付随する一切を彼女は何も知らなかったのではなかったかと思われるからだ。無論、
愛のポジティブな面だけでなく愛を失う不安や恐れ、苛立ちといったネガティブな面も。そうした一切に初めて触れ得たからこそ、
アイリーンは危険なまでに純粋な愛情をセルビーに捧げることが出来たのだろうし、それを手放すまいとして罪を重ねてしまったのではないか。
しかし、二人の関係描写は表層的な部分に終始しているせいか、肝心の部分に切実さが感じられないのは如何ともしがたい。その上、
人間像には深みが欠けてしまっているので、「ラブストーリー」としても恐ろしく平板な描写に留まってしまっているのである。
この点は本当に惜しいと思う。
それでも、である。二人の関係の構図がそれなりにきちんと描かれていたおかげで、警察に追いつめられた二人の別れ、アイリーンの逮捕、
裁判へと推移していくラストの展開とドラマの演出はなかなかのものだ。特に両者の思いが交錯する裁判シーンでは、
アイリーンが抱いたであろう万感の思いがストレートに伝わってくる。役者陣もここでベストパフォーマンスを披露しており、
締めとしては十分見応えのある仕上がりだ。欲を言えば、もう少しじっくりと見せて欲しかったくらいである。
本作はまた、主演のシャーリーズ・セロンがアカデミー主演女優賞を獲得したことも話題となった。
13kgの増量とブスメイクという先行情報から「変身すりゃ賞が獲れるのか」と揶揄する向きもあるようだが、
実際に映像で観るとその変身ぶりには舌を巻かされるに違いない。だが、こと演技という点では、クリスティーナ・
リッチの方が一枚も二枚も役者が上だろう。特にラストのリッチの眼差しと立ち居振る舞いは必見である。
極短いカットしか映されないのが残念だが、筆者はその一瞬を戦慄を覚えるほど恐ろしいと思ったことを告白する。げに恐ろしきは――。
(2004.9.27)
主なキャスト / スタッフ
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