(2003 / カナダ=日本 / クロード・ガニオン)
映画を見ている、人生を見ている

膳場 岳人

 粒子の粗いフレームの中で、内藤剛志、奥田瑛二、桃井かおりという、日本が誇るベテラン演技陣が即興合戦を繰り広げる。 厳密な演出ルールの存在しない空間に放り出されても、熟練した演技者である彼らは落ち着きはらっており、コンビネーションを乱したり、 浅薄で未消化な台詞を捻りだして客の幻滅を誘うこともしない。映画は「ラグビーかなんかやってろよ」「憎しみの固まりが、 きっとガンになったんだよな」「あいつが死ぬと思って活性化してない?」といった印象的な台詞で満たされ、最後まで当意即妙、 簡潔で要を得たやり取りに魅入られるが、そうした演出からクロード・ガニオン監督が炙り出す「死」の表現には、 背筋が凍るような実感がこもっている。

 物語は、物別れしたブルースバンドのメンバーが26年ぶりに再会し、うち一人の末期がんを看取ることになる、というもの。 末期ガンで死に瀕した奥田瑛二の闘病生活と死を中心に据え、「死」はいかにして訪れるか、そして「死」 を取り巻く者たちの心情はどのように変化していくかを、丁寧に描出している。ひと言で言えば"人はいかに死と向き合うべきか"という、 ごく普遍的な問いを投げかけてくる映画であり、『リバイバル・ブルース』という香り立つようなタイトルから、哀感にみちた音楽映画や、 渋い大人のロマンスを期待するとえらい目に遭うということだけは、前もって言っておきたい。同時に、「泣きながら一気に読み終え」 てしまえるような、「身近な人、愛する者の死」を廉価で叩き売りする一連の商売映画とは、厳然たる一線を画しているということも、 強く言い添えておきたい。

 要介護の身となった奥田を、女房もろとも自宅マンションに招き、医療用ベッドまで購入して世話に励む内藤は、一方で、会社にいる 「お袋くらい」の年齢の清掃員や、四国から出てきたばかりのきつい目をした女性シンガー、あるいは夜の女など、 女性と見れば手当たり次第に手を付け、束の間のセックスに無心になって溺れる。会社の共同経営者という社会的地位も手に入れ、 美しい妻とともに眺めの良い高層マンションに暮らす彼は、一見順風満帆に見えるが、その女癖の悪さは、 彼の心に巣食う死への恐怖をあけっぴろげに表象している。沖縄に引っ込んでつましい日々を送り、若い恋人に結婚という形で純情を捧げ、 冴えない人生の終焉を刻一刻と迎えつつある奥田は、そんな内藤をどのように見ているのか。もはや「勃たない」ことを打ち明ける奥田に、 内藤は無神経にも性生活の豊かさを楽しげに述懐する。彼の愚にもつかないおしゃべりを、しかし奥田は限りなく優しい微笑で見つめ、 すべてを赦す。その瞬間、彼がすでに死を受け入れ、別世界へ旅立つ覚悟のできていることを見る者は悟るだろう。 奥田の死後も映画はしばらく続くのだが、そこで描かれる内藤の彷徨は、贖いの対象も天使の微笑すらも奪われ、最後まであてどがない。 あの信用できない笑みを顔に貼り付けたまま今後も生きつづけるであろう内藤の姿は、スクリーンを見つめる我々に妙に無常を感じさせ、 内省を促す。

 この映画でガニオン監督がとった即興演出という方法論は、プロの役者を使うという点で長編デビュー作『Keiko』 よりはるかに確信犯的であり(『Keiko』は、出演者の大半が演技経験の無い素人だった)、洗練・完成の度を高めている反面、 息詰まるようなワンショット・ワンショットの堆積が、「映画を見ている」というスリルに結びつかない宿命も相変わらずのようだ。

 内藤が奥田の経営する沖縄の店を訪れた翌日、なかなか姿を現わさない奥田を店の前で待ちつづける場面。そこにサングラスをかけ、 日に焼けた奥田が「そこの脇の細い階段から上がってこいよ」と声をかける。彼は建物の屋上にいて、内藤の姿を見つめていたのだ。 恐らく奥田は内藤が店に現われた瞬間から、彼の姿を俯瞰していたのであり、その間、26年前に解散したバンドの記憶を反芻したり、 友人の老けた姿をいささか意地悪い喜びを噛み締めながら観察していたにちがいない。つまり、 そこには映画的に処理された不可視のドラマが内在しており、映画ならではのスリルが生じている。 だが映画の大半はこうした戦略的な演出を意図的に排除しており、そのことが作品に重く平板なトーンをまとわせてしまっているのである。 もちろんそれが虚飾を嫌うガニオン監督の強固な演出哲学であることは言をまたない。だがそれゆえに、この映画は客を選び、 物語の設定や主題に親近感を覚える者にとってしか、強い磁力を持続できないのではあるまいか。つい、そんな懸念を持ってしまうわけだが、 余計ごとであろうか。

 『Keiko』は79年の公開当時、桃井&奥田主演の『もう頬杖はつかない』(東陽一監督)と二本立てで全国を巡回していたという。 内藤剛志も同じ時代に役者活動を始めており、顔ぶれひとつとってみても、まさに70年代リバイバルな映画だ。その内藤剛志は、 何ごとも了解したような盤石の微笑の背後に、中年男の漠たる不安を忍ばせ、素晴らしいの一語に尽きる。奥田瑛二は『棒の哀しみ』における、 刺し傷を自分で縫合する血まみれ場面に見られるように、肉体の痛みを生々しく伝える術に長けた俳優である。 今回の末期がん患者の演技においても、延命治療と「死」のおぞましさを、妻の乳房を必死に愛撫する懇願の瞳、 友に排泄の世話をしてもらうという恥じらい、細った肉体、といった細部に宿らせ、「死の実際」とでも呼ぶべきリアリティを獲得している。 桃井かおりは、即興演出というものに恐るべき融合反応を見せ、演技も素も関係ないわ、といったふてぶてしい態度で、もはや至芸の域だ。 ほかには、相変わらず脇で光るミッキー・カーチスと、奥田瑛二の若い女房を演じた渡辺ほなみが、口数は少ないものの、 しなやかで透明感のある存在感で目を奪った。自らの人生を見つめ直すきっかけになるような、誠実な一本だ。

(2004.10.4)

2005/04/30/19:30 | トラックバック (0)
膳場岳人
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