言わずと知れた「バットマン」のスピンオフ企画として製作された本作だが、
企画モノにありがちな「お遊び感覚」や「やっつけ感」が微塵も感じられないことに、とりあえず溜息が出た。
これまでもハリウッドではコミック原作の映画が数多く作られてきたが、近年製作されているコミック原作モノは、
いずれも原作のテイストをきっちりと押さえつつ、映画的な面白さが加味されている作品が少なくない。
そこにはクリエイターとしてベストのものを作り出そうという真摯さが、確かに感じられるのである。本作「キャットウーマン」もまた、
そうした作品に名を連ねる一本と言っていいだろう。
本作は、たまたま会社の秘密を知ってしまったことで命を奪われてしまった女性デザイナー・ペイシェンス(=ハル・ベリー)が、
キャットウーマンとして復活、巨悪に立ち向かっていく姿を描いた作品である。物語の大枠は到ってシンプルであるが、
その骨格は驚くほど骨が太い。中でも特に注目したいのは、キャットウーマンと彼女と敵対するシャロン・ストーン、両者のキャラクター造形だ。
デザイナーとしての才能は豊かだが、プライベートでは奥手で憶病、コンプレックスの塊のようなハル・
ベリーと会社社長夫人で会社のイメージモデルも務めていたが、加齢による容色の衰えにより、イメージモデルを降板、
夫の愛情も若いモデルに奪われるなど、自身の地位の凋落に対して怒りを募らせるシャロン・ストーン。両者の造形は比較的単純で、
類型的な面があるのは確かだろう。しかし、「バットマン」の作品世界が、
心に深い傷を抱えた者達によって夜毎に繰り広げられるペルソナ劇であって、自身の抱え込んだルサンチマンを「ヒーロー活動」と「悪事」
というそれぞれの方法で吐き出し続ける者達の飽くなき闘争を描いたものであることを思い出す時、このハル・ベリーとシャロン・
ストーンに為された造形が、バットマン世界をしっかりと踏襲したものであることに気づかされるに違いない。
そのアプローチは若干異なるとはいえ、本作におけるキャットウーマンは明らかにバットマンの延長線上にあり、シャロン・
ストーンは普通の人間ではあっても、ジョーカーやペンギンといった名だたる敵役と同一線上に位置する存在として肉付けされているのである。
こうしたスピンオフ元作品に対するきめ細かい配慮とリスペクトを怠らないピトフ監督の姿勢は素直に称賛すべきものと言えよう。
そのような造形に加えて、本作は物語の基軸にフェミニズム的視座を取り込むことで、物語を更に重厚なものにしようと試みている。実際、
漫画やSFにおいては、現実の社会構造をデフォルメ化することで、自然な形で現代を暗喩させ、
明快なメッセージを伝える物語に仕立てることが可能であることを鑑みると、フェミニズム的視座の導入という着想、それ自体は悪くはない。
シャロン・ストーンの若い女性に対するルサンチマンを支えるだけでなく、ハル・ベリーのコンプレックスからの解放、
更にはキャットウーマンの存在を究極的理想像として意義づけることに繋がっているからである。
ただ、ハル・ベリー対シャロン・ストーンの構図に見られるフェミニズム的視座は、それが無効だ、とまでは言うことはできないにしても、
些か首を傾げてしまうものであるのは否めないだろう。例えば、変身前のハル・ベリーは、
男性社会に不当に搾取される弱い女性像を体現しているが、女性は搾取されっぱなしなのか。自由を奪われているのか。
確かに現在も女性が不自由な部分はたくさんあるとは思うが、
現代女性は不自由さを意に介さないようなしなやかさを既に身につけているのではないのか。女性の本音を赤裸々に描いた「セックス・アンド・
ザ・シティ」が同性から絶大の支持を得たのは、
まさにそうした不自由に直面しながらもしなやかに生きる等身大の女性像を描いたからではなかっただろうか。また、「若さ」
に対する異常な妄執に取り憑かれ、それによって自らを怪物化させてしまうシャロン・ストーンも同断で、彼女の存在が示唆する『全ての女性が
「美と若さ」を至上価値とする男性的価値観の犠牲者である』という認識自体は一面の真実を含んではいるものの、
その認識と行動の乖離が激しすぎるせいか、シャロン・ストーンに対する共感を抱くのはなかなかに難しいのではなかろうか。結局、
両者の対立と女性が勝ち取るべき自由の体現者であるキャットウーマンの勝利によって、「さぁ、キャットウーマンみたいなイイ女を目指そう!」
とブチあげられたところで、快哉を上げてそれに同意する女性が果たしてどれほどいるのか大いに疑問なのだ。なぜなら、
それが所詮は男性から見た幻想上の「イイ女」像の域を出ていないことを見透かされてしまうからである。
もちろん、そのような造形が分かりやすい形でデフォルメされたものであることは言うを俟たないこととはいえ、最大の難点は、
両者のキャラクター造形が共に、女性なら誰もが共感できるような「女性性」
の一般化に(部分的に包摂されてはいるが)成功しているとは言い難く、表層的な安直さばかりが先立ってしまっている点にあることは明らかだ。
これはとにもかくにも、二人のキャラクターから「どうしようもない現実に対する女性であるがゆえの悲哀」
が感じられないことに起因するのだろう。殊にバットマン世界では、怪物であれヒロインであれこの現実に対する悲哀の深さが、
昼の顔と夜の顔という振幅の中で描かれて初めて、怪物は怪物として、
ヒロインはヒロインとしてその輝きと存在感を発揮するに到ると言って過言ではあるまい。物語の全般的な構図がよく練られているだけに、
各キャラクターに生身の悲哀を抱かせるには到らなかったことは、作品としてかなり惜しまれる。
特に、シャロン・ストーンは設定上「若い女性に全てを奪われた高齢女性」ということで、
肉付け次第では敵でありながら遍く女性が共感を覚えるようなキャラクターになったかもしれず、
単に状況証拠を積み上げるだけに終始した生ぬるさはいかんともしがたい。また、キャットウーマンにしたところで、ハル・
ベリーがキャットフードを貪り食う姿は印象に残っても、「解放の悦楽」とでも言うべき部分が殆ど印象に残らないので、「自由の体現者」
という位置付けを素直に納得しにくい。何よりボンテージ系コスチュームに鞭、といういでたちこそ眩しいが、そこに
「キャットウーマン的エロティシズム」とでも呼ぶべきものが果たしてあったのか、極めて疑問と言わねばならないだろう。
本作「キャットウーマン」は、スピンオフ企画でありながら、
スピンオフ企画にあるまじき丁寧さが随所に感じられる作品ではあることは確かである。もしかしたら「バットマンファンをターゲットにしない」
という製作側の方針があったのかもしれないが、単なるスピンオフ企画という範疇に留めまいとする努力が、バットマンファンの排除に繋がり、
本作の魅力を幾ばくなりとも削ぐ結果となってしまっているのは皮肉なことである。スピンオフ企画であるならば、「女性」
という点にばかり注意を向けずに、舞台をゴッサムシティにして街中にバットマンマークをこっそり忍ばせるとか、
「またまたバットマン大活躍ッ!」といったニューステロップを流すといった隠しファンサービスがあってもよかったのではないだろうか。
(2004.11.1)
主なキャスト / スタッフ
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