(2002 / 韓国 / パク・チャヌク)
「悲劇」の直前で立ち止まった物語

仙道 勇人

 昨年2004年のカンヌ映画祭でグランプリの栄冠を勝ち得た「オールドボーイ」。その鮮烈な印象が記憶に新しいパク・ チャヌク監督だが、「オールドボーイ」は元々「復讐三部作」と呼ばれるトリロジーの第2作目にあたる作品であるという。本作 「復讐者に憐れみを」がそのトリロジーの幕開けとなる作品ということで、筆者は非常な興味をもって劇場に足を運んだ。なにせ 「三部作(トリロジー)」である。わざわざ銘打つからにはそれなりに意味か狙いがあってのことであろう。単に「復讐」 をモティーフにした連作というだけなのか、或いは一作目から二作目へと進むことでもっと別の何かが見えてくるのか。「オールドボーイ」 が与えたインパクトは、筆者にとってそれ程までに大きなものなのであった。

 結論から言うと、本作「復讐者に憐れみを」を観る限りトリロジーと銘打ってはいるが、「復讐」 という共通モティーフを扱った単なる連作に過ぎないように見える。勿論、現在撮影中の最終作「親切なグムジャさん」 の公開を待たねば明言することはできないが、一作目と二作目の間には何らかの結びつきを示す要素は見出せなかった。が、 それ以上に残念なのは、本作が悲劇としては完全な失敗作に終わっているということである。しかし、監督の名誉の為に言うならば、 ただの失敗ではなく「野心的な失敗作」と言うべきではあるが。

 この「復讐者に憐れみを」には、二人の復讐者の姿が描かれている。腎臓を患う姉の治療のために、 絵描きになる夢を捨て工場での肉体労働に従事する聴覚障害者の青年リュウ(シン・ ハギュン)と離婚した妻との間の一人娘だけが生き甲斐となっている工場社長のドンジン(ソン・ガンホ)である。 事件の発端はリュウが自身の腎臓を姉に提供しようとするも、血液型の不一致で移植できなかったことに起因する。 失意のリュウに追い打ちをかけるように工場からは解雇され、藁に縋る思いで頼った臓器密売組織に騙された挙げ句、 退職金の1000万ウォンと自分の腎臓までをも奪われてしまう。そんな時、病院からドナーが見つかったという知らせが入るが、 リュウには入院費の1000万ウォンを工面するあてがない。途方に暮れるリュウは、社会革命運動にかぶれていた恋人のヨンミ(ペ・ ドゥナ)の「資本家から金を取ればいい」「無事に返せば誘拐なんて犯罪とは言えない」という言葉に乗せられ、ドンジンの娘を誘拐する。 身代金も無事に確保し事態は全て上手くかと思われたが、予想もしない所から誘拐計画が姉に露見してしまう。 弟を犯罪者にしてしまった自責から、姉は「娘を無事に帰すように」と書き残して自殺。しかし、 姉の願いも虚しく偶発的な事故によって娘は溺れ死んでしまう――。

 こうして愛する存在を永久に失った男(達)の復讐が始まるわけだが、確かにこの復讐行には後の「オールドボーイ」 をすら凌ぐ面が見受けられもする。二人の男の歩みが交錯するまでの息詰まるような緊迫感や酸鼻を極める蛮行、 そのグロテスクなまでにリアリスティックな描写の数々などである。しかし、それでも本作が「悲劇」として成立するには十分とは言えない。 なぜなら、本作では全てが終わっても何も「立ち上がってこない」からである。いや、寧ろ全てが終わることで、 悲劇的な要素を打ち消してしまっていると言うべきか。つまり、それまで本作の端々に感じさせていた超越者の影を、 最後の最後で自ら否定してしまっているからに他ならない。

 ここで言う超越者の影とは、言い換えれば人間存在の絶対的な卑小を突き付けずにはおかない状況そのものであり、本作ではいくつもの 「もしも」という形で埋め込まれているものである。リュウならば「もしも耳が聞こえていたなら」「もしも姉が病気でなかったら」 「もしも姉に腎臓を提供することができたなら」「もしもお金があったなら」。ドンジンならば「もしも社長でなかったら」 「もしも景気が良かったなら」「もしも無理なリストラを断行していなかったら」といった具合である。これらのどうしようもない「もしも」 の前に煩悶する人間の姿こそが、悲劇を悲劇たらしめるのである。しかし、本作にあっては復讐という行為に至るそのような葛藤を、 状況の提示によって処理し、二人の復讐者を一気に疾走させてしまう。これが前述の緊迫感に繋がっていくわけだが、 その一方で本作を怒りに駆られた人間が演じる凄惨なだけの単なる復讐劇に貶めてもいるのである。

 もう一つ問題は、物語に二人の復讐者を置くというアイディアを最終的に上手く活用し切れていないことだ。二人の復讐者を置くことは、 恐らく復讐という行為の個人的属性を相殺する試みであり、それによって観客に一段高いパースペクティブの存在を示そうとしたように思われる。 即ち、それは彼らを復讐に駆り立てた根源がどこにあるのか、という問いかけであり、 本作ではそれは現代の社会構造そのものにあると言いたいのだろう。事実、本作が描き出す社会の風景からは、 ドンジンの邸宅と彼に直訴を試みたある労働者の大家族の住んでいたあばら屋との対比を指摘するまでもなく、 極端なほどの貧富の格差が強調されているのが見てとれる。また、この二人の復讐者はそれぞれの社会的立場を代表する存在でもある。 リュウは経済的弱者を代表した人間であるが、 不景気を理由にしたリストラ断行というエピソードで彼ら労働者がいかに資本家に搾取されているかを描いているのは勿論、 臓器密売組織の存在すらも金さえあれば臓器が簡単に手に入れられることを暗に示しており、 行き過ぎた自由主義に疑を投げかけているように見える。一方、経済的強者を代表するドンジンにしても、 強者であるが故に常に弱者からの突き上げに晒され、不当な恨みを買いもすれば、多忙を理由に妻に去られるなど、 経済的強者即幸せとはなりえないことを示しており、どちらの側にいても現在の社会では、構造上人は幸福になれないと言いたいかのようである。 その証拠に、リュウが意に反してドンジンの娘を事故死させてしまったように、 ドンジンもまたリストラによって一つの家族を死に追いやってしまうことで、 弱者と強者を対比させるのではなく両者が全く対等の立場に過ぎないことを示唆することに成功している。

 そう、ここまではいいのだ。二人の復讐者が互いに同じ地平に立っていることを示すに至る本作の構造は、 些か無理がないではないがそれでも一応機能している。しかし、全てが終わった時に超越者の存在ではなく、 一切を社会構造に結びつけるが如きこの構造が、逆に本作の悲劇性を矮小化し、 酷く陳腐な印象すら与えることとなってしまっていることも否定できない事実だろう。いや、より正確に言うならば、 それが本作を悲劇ではなく喜劇にしてしまっているのである。

 本作では数多くの人間が復讐の名の下に粛正されるが、それは復讐という行為に仮託された正義の行使(独善的だが)であったはずだろう。 となれば、この復讐劇で最後に立ち去る者こそが、真の勝者であり真の正義であると考えざるをえないのだが、 この幕切れを受け容れられる者が現在どれほどいるのだろうか。「因果応報」と言えば確かにそうだが、それだけで済ましてよいのか。 少なくとも筆者には釈然としないものしか残さなかった。本作の結末がどのようなものなのかは、各自の目で是非お確かめいただきたい。

(2005.2.14)

2005/04/30/20:06 | トラックバック (1)
仙道勇人
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