無口で人付き合いの苦手なかつら工場の従業員、田中宏(鳥肌実)を主人公にした、
「悲喜こもごもの人情喜劇」……という形容には収まりきらない、キッチュな味わいの物語。映画は、
孤独な彼にコミュニケーションを図ろうとする上司(高橋克実)が携帯電話を見せ、
さる歌謡曲による着信音で笑いをとろうと試みる場面から始まる。そのとき田中宏は、当惑したような、
仕方なく愛想笑いをしているかのような、なんとも居心地の悪いかすかな笑みで応じてみせる。
そのメリハリを欠いた妙に生々しい表情、焦点をはっきりさせない演出のタッチが、この映画の基調をなしている。
会社の同僚や両親(上田耕一、加賀まり子)は言うに及ばず、彼に好意を寄せているらしき弁当屋の娘(ユンソナ)のささやかな思いやりも、
彼の自己を閉ざした振る舞いを変えるにはいたらない。将来を案じた両親は知人のツテを頼ってお見合いをセッティングするが、
彼は周囲の思惑をよそにドタキャン。生まれて初めての映画館で、ヤクザ映画など見てへらへら笑っているのである。
そんな気ままで陰気な田中宏の生活も、どんな者の身にも起こり得る不幸、すなわち、父の死が引き金となって、
暗雲がたちこめはじめるのであった――。
小市民の中でもとりわけて地味で孤独な32歳の男の暮らしが、淡々としたリズムで綴られる。その中に、
なんとも匙加減の微妙なギャグが挿入されていく。立ち食い蕎麦屋で蕎麦を注文したのに、うどんが出る。帰り道にいるたこ焼き屋のオヤジと、
いつも目が合ってしまう。雑誌のグラビアアイドルを見ながら自慰行為に耽っている部屋に、母親が闖入する。身内の葬儀になると、
必ず中学時代の同級生、タナベ(宮迫博之)がにやにやしながら現われる。後頭部のハゲを指摘されて気にするが、
かつら工場の同僚たちに慰められる。「テルミンと俳句の会」という怪しげな会に参加したところ、提出した俳句を誉められる。そこの会長
(伊武雅刀)が発言するたびに、傍らで待機する女がテルミンの緩い音色を奏でる……。
カテゴリーとしては「喜劇」に属するわけだが、泥臭く明快な人情喜劇は気恥ずかしいといわんばかりに、その笑いはとても無愛想で低温度。
家の近所に、彼にいつも吠え掛かる犬がいる。しかし、その存在は植え込みをガサガサ揺らすことだけで表現される。
彼をうまいこと嵌めた悪徳リフォーム会社の寺島進が木立の前に来ると、木の後ろから別の詐欺師たちが登場し、再度彼を陥れるべく、
足取り揃えて出動する。サイレント映画でも見ているかのような、その機械的で不自然な動き。
その一方で、彼を見舞う不幸は「不幸」としか形容しようがない、ほの暗さと悪意を孕んでおり(描写自体は非常に記号的で軽いが)、
比重としてはやや重きに流れそうな気配である。貧しい暮らしを送る人間に降りかかる不幸を、乾いたユーモアを交えつつ、
サイレント映画のようなタッチで描く――ここにいたり厭でも想起してしまうのは、フィンランドの名匠アキ・カウリスマキの映画だ。
画面を支配する冬の寒々しい光や、現実味に乏しい人工的な色彩の装飾、人物の背景を斜めに横切る影のラインにもその影響が窺えないだろうか。
現代日本の風景にかぶさる「コーヒー・ルンバ」や「蘇州夜曲」といったレトロな楽曲の使用もまさにそう。傑作『過去のない男』(02)
ではクレイジーケンバンドの歌が使用されたが、この映画のエンディングテーマ(「シャリマール」)も、やはりクレイジーケンバンドだ。
もちろん、何から何までカウリスマキへの憧憬に彩られた映画というわけではない。だが、その名を思い浮かべた瞬間に、
そもそも感想を述べにくいこの映画に対する感想を述べることが、非常に難しくなってしまうことも確か。あやふやな笑いに終始せず、
徹底して厳格なるカウリスマキ映画をやればよかったのでは、と思ってしまうからである。もっともそれは、
このオリジナルなパッションを持つ映画(この地味な物語で企画が通ったこと自体奇跡的)にとってたいした意味を持たない意見ではあるだろう。
こうした演出スタイルが、田中監督の本分なのかどうかは、菊地秀行原作の監督第二作、『雨の町』を見てみるまでは分からない。今はただ、
主役を務めた鳥肌実のぎこちなさと生々しさが交じり合った妙演に、なんとも居心地の悪いかすかな笑みで応えるほかなさそうだ。
(2005.4.11)
主なキャスト / スタッフ
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