魔法少女のいるところ

第2回「空っぽの器、虚ろな傀儡」

大久保 清朗

魔法少女たちはどこからやってくるのか。どこに行けば会えるのか。
『魔法少女まどか☆マギカ』の脚本家である虚淵玄は、インタビューで「魔法少女」は、あくまで表層であると明言している。これまでの「魔法少女」に新たな解釈を与えたのではないかという聞き手に対して「そもそも『魔法少女モノ』の皮を被った全然別物の物語、という意識で脚本を書いたので、シナリオライターの立場としては、根源的には魔法少女モノではないと思っています」*1と答えている。また別のインタビューで、「人が死ぬ魔法少女」が与えられた構想であったとも述べている。「魔法少女の上っ面の可愛さをただの偽装として、そのギャップを仕込む嫌な話がいいなと思ったんですよ。それを餌にして、人を釣った上で現実を見せていくホラー」*2。「魔法少女」をタイトルに冠することを主張したのは監督の新房昭之だとされているが、この悪意を感じさせる偽装工作が暴かれることになるのは最初の転換となる第3話「もう何も怖くない」――忘れもしない、まどかの憧れる先輩格の魔法少女・巴マミのによって――であった。
『魔法少女まどか☆マギカ』巴マミ1
(C)Magica Quartet/Aniplex・Madoka Partners・MBS
虚淵にとって魔法少女とは「餌」であり、人々の目を欺くための囮であった。いや、「人が死ぬ魔法少女」が制作側からの提案であったことを鑑みれば、虚淵を含めた原作集団「Magica Quartet」が、魔法少女そのものを、実体を欠いた容れ物として了解していたといっていい。空っぽな器としての、うつろな傀儡としての魔法少女。(そして、これはたんなる隠喩にとどまるものではない。魔法少女になることの代償として文字どおり傀儡化すること――それがまどかの友人・美樹さやかの悲恋の根底にあるからである。)
囮と人形。詩人であり小説家の松浦寿輝は映画とは「囮と人形との婚姻のことである」と書いた。「もし今日、映画が思考にとって刺激的な何ものかを持ちうるとすれば、それは他のあらゆる芸術がかつて許したことのなかった未曾有の規模の活力と場を囮と人形に与えつつ、ある決定的な形で影を廃棄してしまったという一点に求めるべきだろう」*3。「影」とは、この場合、モデル(オリジナルといってもいい)に従属する存在というほどの意味である。魔法少女が、囮であり人形であるとすれば、それはどんな「影」を廃棄したといえるだろう。
大切なことは、魔法少女が何であるかを実体としてとらえることはできないということである。魔法少女とは、その言葉のとおり、魔法使いの少女である。だがかりに、日常ではなしえないこと、奇跡をなし得る行為を「魔法」だとするなら、アニメーションで登場するあらゆる少女たちは魔法少女であるという極論(魔法少女の遍在論)さえ不可能ではなくなってしまう。あるいは逆に、斎藤環のいう「戦闘美少女の系譜」(これは『戦闘美少女の精神分析』第五章のタイトルでもある)のように、1966年の『魔法使いサリー』を発祥とする戦闘美少女の一支流と見なすこともできる。
「その存在が一つのステレオタイプとして消費され尽くすことなく、むしろ物語を際限なく創発するような核として機能し続けているということ」*4と斎藤は述べる。魔法少女がそのようなものであることは『まどか』の作者たちも承知しているだろう。では『まどか』は「戦闘美少女」の後胤なのか。そもそも「魔法少女」に何らかの元器(モデル)が存在するのだろうか。彼が強調してやまない日本のアニメ・マンガにおける性愛の在り方は、少なくとも『まどか』はもとより魔法少女一般にあってさえそれほど重要ではない。『魔法少女まどか☆マギカ』巴マミ2
(C)Magica Quartet/Aniplex・Madoka Partners・MBS
『まどか』に性的要素が稀薄であることは対談のなかで宇野常寛が虚淵に確認してもおり、虚淵自身「セクシュアリティがない空間というだけなら、実は昔のヤクザ映画と一緒なんですよね。男しかいない空間の物語というのはいくらでもあるわけです。自分はそれを女の子でやったというだけで、それほど特殊なことをしたというつもりはないんですよね」と語っている*5
斎藤の指摘で重要だと思われるのは、魔法少女もののとりあえずの出発点となる『魔法使いサリー』がテレビシリーズ『奥様は魔女』から想を得たこと、そして「ここで興味深いのは、子供向け番組のモデルを成人向けのドラマに求めるという手続きのほうではないだろうか」という指摘である。子供向けアニメという容れ物に、大人のドラマが盛られているということ。魔法少女が始まりの段階ですでにジャンルを攪拌する装置として機能しているのではないだろうか。魔法少女とは確定された境界をすり抜けることによって生き長らえて来たのではないだろうか。
そもそも魔法少女の存在は日本ではアニメにとどまるものではない。童話作家の角野栄子は、やがてアニメーション映画化される『魔女の宅急便』も、当時中学生だった角野の娘の描いた少女の絵から着想されたものであった。角野は「ふと娘のような現代っ子の魔女を主人公に物語を書いてみようかなと思った」*6と述べていることは、魔法少女の発想の淵源が(斎藤の強調する性愛とは無縁に)血縁に深く根ざしていることを物語っている。同じことは梨木香歩の処女作『西の魔女が死んだ』における祖母と孫娘との交流にもいえるだろう。この場合「魔女」とは主人公マイの祖母であり、『裏庭』からも明らかなように、角野に比べてイギリス児童文学の伝統に自覚的な作家である。だが魔女である孫娘は、ある意味では魔法の継承者ともいえ、そこに魔法少女のあえかな残香が漂っている。
残香といえば、阿部和重による「神町サーガ」第二作となる『ピストルズ』にも、魔法少女の濃密な「馨香」が充満している。一子相伝の魔術を継承し、瀕死の父のために「愛の力」を暴発させる少女・菖蒲みずき。『ピストルズ』は作者のサブカルチャーの膨大な記憶によって支えられているが、それを包摂する存在として年若い魔術師の少女が選ばれたのは必然の帰結であったのである。ひょっとしたら、作家が魔法少女を選びとっているのではなく、魔法少女たちの方が、ジャンルの垣根を踏み越えようとする作家たちを選んでいるのではないのだろうか。

編註

*1 『B.L.T.』2011年6月号、133頁。 本文へ

*2 「虚淵玄緊急インタビュー」、『メガストア』2011年6月号、コアマガジン、11頁。 本文へ

*3 松浦寿輝「囮と人形――相似の映画論」、『映画n-1』筑摩書房、1987年、221頁。 本文へ

*4 斎藤環『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫、2006年、241頁。 本文へ

*5 対談「すれ違いの先にある奇跡」、『Black Past』シャドウ・クラスタ、2011年、11頁。この対談で虚淵は「『まどか』の場合、プロットラインとしては完全にヤクザものなんですが、少女をメインに置くことで任侠とはひと味違う物語を産み出せたなと思っています」(12頁)とも語っている。『Black Past』はしねあい、坂上秋成両氏編集による同人誌。 本文へ

*6 角野栄子『ファンタジーが生まれるとき』岩波ジュニア新書、2004年、131頁。 本文へ

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫) [文庫]
戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)
ファンタジーが生まれるとき―『魔女の宅急便』とわたし (岩波ジュニア新書) [新書]
ファンタジーが生まれるとき―『魔女の宅急便』とわたし (岩波ジュニア新書)

2011/06/18/18:05 | トラックバック (0)
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