「なんかよぉ、あのマキって女むかつかない?理由?いや別にないけどさぁ。強いて言えば生理的に?みたいな。ちよ?お前、論外だろ、
あいつは。殺すリストに入れてるから俺。カワチと付き合ってる時点でアウトだし。ケイトねー。まあマキとちよよりはマシだけど、
うるせーじゃん、あいつ。しかもなんかあのうるささわざとらしいし。黙ってりゃいいってもんでもないけどよ。ま、
とにかくあいつら人間の本質見る目ないよ。え?三人がやらせてくれるって言ったら?・・・ま、一応やっとくけどさぁ。
いや誰でもいいけどそりゃ。(童貞だけどな、俺)」
仮に筆者が、映画「きょうのできごと」に登場する女の子のキャラクターたちと同級生だったとしたら、
数少ないボンクラ友達と教室のすみでおそらく上記のような会話をしていたことだろう。
この映画の登場人物たちはどこにでもいそうな学生たちだ。
おそらく本当にどこにでもいてこのような飲み会をしたりデートをしたり会話をしているのであろう。
スーフリのような学生の日常もあればこんな学生の日常もある。筆者はそのどちらにも属していなかった。
二十歳すぎているのに女の子とロクに話す機会すらない。でもモテたい願望人七倍。妄想と自慰の日々という学生の日常もまたある。
そんな筆者は強烈に自分以外の学生生活に憧れとコンプレックスを持っていた・・・。あんまりカンケーないか。
で、この映画はそんなよくいる大学生たちの一日を描いた話である。彼らはたわいもないことで悩んだりケンカしたりする。
かわいいスカートが買えなかったとか、自分より顔の良い奴に八つ当たりしたりだとか、映画撮りたいけどうんたらかんたらグジグジとか。
そんな彼らの一日を観客は観るのである。
であるからしてこの映画に乗れるか乗れないかはそんな彼ら彼女らに共鳴できるもしくは彼ら彼女らを好きになれるかが重要なことだ。
結論はほぼ言ってしまっているが冒頭に書いたように筆者は彼ら彼女らに共鳴する部分は皆無であり彼ら彼女ら(特に彼女ら)
を好きにもなれなかった。
なぜか?この映画には空気感がないからである。まずいきなり部屋が寒そうだというダイレクトな空気感の薄さが気になった。
ストーブつけてんだろうけど、つけてない感じがした。まあ、それはどうでもいいことかも知れないがそんなことが気になってしまうほど、
なんだか細かいことが気になってしょうがない映画なのである。冬なのに裸になって髪切ってもらうか?とか、しかも酔った女に?とか、
久し振りに会った旧友との電話番号の交換のしかたちょっと変だろ?とか、買出し行ってケッコーたくさん買ってきてたように見えたんだけど、
また行くか?とか、カワチってあのキャラ絶対演技だろ?とか、極めつけは、ケッコー遠くのツレの家まで車で飲みに来てんのに、
その日に帰るか?普通。とか、しかも飲酒運転だろ?なんて、
それを言っちゃあおしまいよと言われそうなことまでも気になって気になってしかたがないのである。
つまりそれは、そこに仲間同士のかもし出すあの独特の空気感を全く感じないからだ。男同士にも感じないし、
妻夫木と伊藤歩の幼なじみにも感じないし、柏原と山本の旧友にも感じない。全ての人間関係に空気感が感じらないのである。
人間同士の距離感は無視してひたすら「なんかイイ感じ」といった状況作りに苦心しているように感じるのであり、しまいには「あ、
こいつら演技。(映画上の演技ってことではなくてね)実際たいして仲良くねーのに、友達の振りしてる。だから妻夫木の役、
煙草ばっか吸ってんだよ」なんて穿った見方をしてしまったくらいである。
散りばめられたギャグも、シチュエーションは悪くないのにスベり気味だ。リアクションが大きすぎるというのか、
一言多すぎるというのか説明過多に感じるのだ。で、
説明過多と言えばカワチとちよのデートの回想場面などもなくても観客は容易に想像できるのではないだろうか。
つまり全篇淡々とした日常を淡々と描こうとしているように見える割には作為的な臭いがプンプンするのである。
よって彼ら彼女らがスクリーンの中でその人生を生きているように感じられないのである。
「空気感どーのこーのじゃなくて、お前ただ単にこいつらのこと嫌いなだけじゃん。いまだにこんな学生生活にコンプレックスあんだろ」
と言われれば確かに返す言葉はないのだが、でもやっぱり鑑賞後に「こいつらあんま好きじゃないけど、今日は爆睡だろうな」
くらいは思ってみたくなるくらい、「今日の出来事」の中で生きる彼らに息吹を感じたかったのであります。
(2004.4.5)
主なキャスト / スタッフ
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