「人間を描く」――筆者が10年も前に通っていた映画学校では、講師の誰も彼もが口を揃えてそう繰り返していた。
これは学校を主宰した今村昌平監督の、映画作りに於ける一貫したテーゼである。その意味を一言で要約するのは難しいが、例えば
『にっぽん昆虫記』(63)の左幸子が、父親の訃報を知らされて家に駆けつける悲嘆の途上、我慢できずに道ばたで放尿してしまう場面。
あるいは『赤い殺意』(64)の春川ますみが、男に手篭めにされて首吊り自殺を図るものの、失敗するやいなや、
お櫃から手づかみで飯をもりもりと頬張る場面といった、映画史上に残る幾つかの名シーンには、
今村監督の映画哲学が明瞭に象徴されているのではないかと思う。
『殺人の追憶』を見たとき、筆者は打ちのめされるような思いで、「人間を描く」というテーゼ、
さらには今村映画を語る際に必ず冠される重喜劇という言葉を想起したのであった。
86年から91年にかけてソウル近郊の村で実際に起きた、「華城連続殺人事件」に基づくこの映画は、
のっけから当時の警察の無能ぶりをブラックに笑い飛ばす。発見された無惨な絞殺死体の周りは、
卑しい笑みを浮かべた警官や野次馬によって踏み荒らされ、皆はそこで煙草を吸ったり和やかに談笑したりしている。彼らには「現場を確保する」
という、素人にも分かりそうな意識が完全に欠如しているのだ。刑事のソン・ガンホがせっかく犯人のものと思しき足跡を発見しても、
通りかかった耕運機によってあっけなく踏み潰されてしまう。激昂するソン・ガンホ、のんびりと行き過ぎる耕運機、
慌てふためいて土手を滑り落ちる刑事――現場の混乱を捉えた、ステディカムによる長く見事なワンカット。この映画が描かんとする主題は、
この序盤のワンシーンにほぼ集約されていると言っていい。
近代化が進む農村で猟奇的な連続殺人事件が起き、刑事たちは無能ゆえに犯人を取り逃がす――。実際、映画の筋はこれだけである。
この唖然とするような滑稽さは、同時に被害者やその遺族にとって、あまりに救われない残酷さをはらんでいる。だがその滑稽さ、残酷さに、
重喜劇の基本構造が内包されている。監督は役立たずのくせに横暴な刑事の姿を活写することで、80年代中盤の韓国の社会状況を炙り出すが、
だからと言って権力の腐敗を暴き出しているつもりは毛頭ないだろう。事件を迷宮入りにしてしまった張本人の刑事たちも、
運良く罰を逃れる犯人も、惨殺される被害者も、誰一人として明快な善悪の記号など振られていないのである。彼らは単に「人間」
という桎梏から逃れられない悲哀を漂わせて、劇中を右往左往するだけだ。
もちろん、監督はそうした観念性に拘泥することなく、きびきびと的確に物語を語り進めていく。ソウルから来た若手のキャリア刑事(キム・
サンギョン)と田舎の叩き上げ刑事との反目や、雨の夜に赤い服を着た女性ばかりが殺され、
さらには事件と同時刻に必ず同じ曲がラジオ局にリクエストされる、というミステリアスなお膳立て、学生運動鎮圧のために機動隊が不在となり、
それが結果的にもたらす悲劇など、シナリオは劇的な盛り上がりに事欠かない完璧な構成を誇っている。暴力によって自白を強要した刑事から
「ナイキ」ならぬ「ナイス」というシューズをプレゼントされ、無邪気に喜ぶ頭の弱い男、女性の死体が発見された現場で、
妄想たくましく自慰に耽る家族思いの労働者、「犯人は陰毛がないはずだ」という馬鹿馬鹿しい推理を立てて銭湯に張り込む刑事等々、
振幅の広い人間描写は重喜劇作家の独壇場である。
しかし殺人が果てしなく続き、捜査が長引くにつれて映画は徐々に笑いを失い、どんよりとした暗雲を垂れ込めさせることになる。
道化のように笑いを振り撒いた男が自ら命を絶ち、ある刑事が権力の象徴のように炸裂させてきた飛び蹴りが宙空から消え、
愛らしい少女の腰に貼られた絆創膏が雨に濡れる時、重喜劇は悲劇に転じ、雨が滂沱と降り注ぐ荘厳なクライマックスになだれ込む。
このシークエンスは何から何まで最高だ。疲労の色濃い刑事たちを容赦なく打つ大粒の雨、その一滴一滴を逃さず捉えるキャメラ、
黒々とした情念を狂おしく滾らせるキム・サンギョンの凄愴な表情、いつしか他者への憐れみを知り、暴力を捨てて佇むソン・ガンホ――。
すべてが見る者の胸を焦がし、圧倒する。いい映画を見た――そのカタルシスがみぞおちに響き渡る。改めて思うに、
映画内における主人公の挫折とは最高の美酒である。
ところで、この映画が昨年度の韓国ナンバーワンヒット、という厳粛な事実に冷静でいられる日本の映画人はどれくらいいるのだろうか。
もちろん映画人のすべてが重喜劇や「人間を描く」という古色蒼然とした姿勢を遵守せねばならない法はない。『殺人の追憶』
を見て屁とも思わぬ人がいたって一向に構わないだろう。筆者にしてもポン・ジュノ監督が今村昌平に匹敵する、
などと強弁するつもりはまったくない。しかし、この映画の完成度はやはりただ事ではないし、
気が狂いそうになるほど嫉妬した筆者のような者も、結構多いのではないだろうか。いや、大勢いて欲しいと思う。
今村昌平の比喩的な意味での息子は日本では影が薄く、韓国では社会現象になるほどのヒットを飛ばした。スクリーンの向こうでポン・
ジュノ監督は確かにこうつぶやいている。
人間を描け、人間を描け、人間を描け、と。
(2004.3.28)
主なキャスト / スタッフ
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