電脳、と呼ばれるネットワークにいつでもどこからでも常時接続できる世界。人々は義体と呼ばれる高機能部品によって、
身体を機械化することすら可能となっている。この世界はまた、「私」にとって最も固有のものであるはずの身体が、
自らのアイデンティティを保証しえなくなりつつある世界でもある。前作「GHOST IN THE SHELL」では、
完全義体ゆえに絶えず実存的な揺らぎに曝されていた草薙素子が、電脳と融合するという形で身体の桎梏を超越する様子が描かれていた。本作は、
思い人である素子が電脳に立ち去ってしまい、一人現実世界に取り残されてしまったその後のバトーに焦点を当てており、「GHOST IN
THE SHELL」の完全な続編となっている。
少女型の愛玩用ロボットが暴走して所有者を惨殺する事件が発生したのを受け、公安九課に所属するバトーはトグサと共に捜査にあたる――
という本作の基本プロットは、バディ・ムービーの典型であり、シンプル極まりない。その捜査の合間に、
嘗てバトーと抜き差しならぬ信頼関係があったらしい「少佐」と呼ばれる消息不明の人物のことが語られ、
バトーも数年来その人物のことを想い続けているらしいことが仄かに描き出される。
生死すら定かでない女(少佐=素子)への想いを胸に秘めた大男の姿を、押井はこれ以上にないくらい即物的で乾いたタッチで描いていく。
愛に関するリラダンの言葉が、冒頭のエピグラフに引かれていることからも明らかなように、本作が「愛の物語」
を基幹にしていることは間違いないが、この喪失感の溢れる一連の描写はハードボイルドの王道を行くものであろう。そして遂に、
捜査の過程でバトーは素子と再会を果たす。それは、戦友として肩を並べて共に修羅場をくぐり抜けてきた過去そのままの、
比類のない信頼に根ざした至福のひとときと言ってよい。素子の力で事件は処理され、二人は再び別れを余儀なくされるが、
素子は最後にバトーに言い残す。
「ネットに接続する時、自分はいつもあなたの傍にいる」
素子のこの台詞は、ネット生命体という新しいフェイズに移行した彼女が出来る、唯一の愛の告白に他ならない。そして、
バトーはこの言葉を拠り所に、それまで確証のなかった素子の存在を、否、素子のゴーストを、ネットに接続する度に感じ取ることだろう。
「イノセンス」、それは身体性に束縛されないがゆえに、ユビキタスな関係へと昇華された究極の愛、究極の関係性を描いた物語なのだ――。
しかし、その一方で、そのような「ユビキタスな方向へ開かれる愛の物語」だけを読みとることに、
些かの居心地の悪さをも同時に感じてしまう。なぜなら、先述の愛の告白は所詮素子(身体のない存在)のものであり、
物語がその一点に集約されるようには出来ていないからである。その最大の理由が、
バトーの存在そのものが素子的な在り方を拒否しているからに他ならない。甲斐甲斐しいまでに愛犬の世話をし、或いは、
降臨した素子のガイノイドの身体に自らのベストを羽織らせてしまうバトーにとって、身体と他者性は完全に一致している。そして、
そのようなバトーにとって、素子的な愛の在り方はありえないものではなかろうか。バトーは素子を愛してはいても、
自らの望む愛し方を許されないのだ。その意味で、素子とバトーは決して交わることのない永遠の平行線とも言える。
素子とバトー、両者の立ち位置にはかような乖離が含まれているが、
どちらの視点で読み取ろうとしても物語に破綻が生じていないということには驚きを禁じ得ない。本作ほど多義性に満ち、
多様な読みに耐えうる作品はそうあるものではないだろう。
いずれにしても、極端に無口な語りで構成され自己補完を拒否している本作は、単体では難解で晦渋を極める作品と言わざるをえない。
とりわけバトーと素子、二つのゴーストの交流に物語のクライマックスが設定されている以上、前作「GHOST IN THE SHELL」
を未見の者に、本作を十全に味わうことなど不可能だろう。
(2004.3.22)
主なキャスト / スタッフ
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