老境に差し掛かった「巨匠」が、若者たちの自由なセックスを微笑みとともに描き切った青春映画である。
ここには密室での多彩な情事があり、近親相姦と同性愛とが身近に横たわり、「エロティシズムとは死にいたるまでの云々」
といったバタイユの言葉を浅はかになぞった、類型的だが強靭なストーリーラインがある。監督自らこの映画は「ヌーヴェル・
バーグへのオマージュ」と公言している通り、作中には名作映画からの夥しい引用がなされている。だから、
シネフィルは大いに喜んでしかるべき映画なのだが、映画館の暗がりにばかり身を潜めてきた侘びしい人々よりも、
映画を楽しむのと同程度にセックスを楽しんできた人々にこそ、是非見て欲しいと思わせる作品である。
アメリカからの留学生、マシューは、パリのシネマテークで双子の美貌の姉弟、イザベルとテオに出会う。映画への愛で結ばれた彼らは、
姉弟の両親がバカンスで家を空けるのをいいことに、三人で共同生活を始める。夜は裸で抱き合いながら眠る妖しげなイザベルとテオは、
マシューの保守的な態度を徐々に武装解除させ、やがてさまざまな性の冒険へと巻き込んでいく――。
結論から言うと、三人の生活は、いつしか退屈と倦怠と捩れた感情的対立により、内部崩壊すれすれの事態を迎える。
それはお決まりの展開と言うべきだが、そこに至るプロセスには、楽園生活の幸福感が漲っている。若さゆえに許される奔放なセックスと、
その筆舌につくしがたい「楽しさ」を、ベルトルッチが知悉しているからであろう。小便、精液、経血と、
人間が排出する体液がしばしば露骨に映し出されるが、それらは恐れ知らずな若者の生態を活写する上で、優れた小道具になりえている。
ベルトルッチにとって、若者が出すあらゆる体液は、ジュネが『泥棒日記』等で魅惑的に描出した「唾液」のように、美しく高貴な物体なのだ。
シナリオ上の、あるいは演出上の、あるいは撮影技術上の技巧を駆使して性の饗宴を描く画面の向こうには、
若い頃さんざん遊び尽くした好々爺による、奥ゆかしい笑みすら透けて見える。
しかし、思いのほか映画の手応えは軽い。その「軽さ」の原因の一つには、ここに描かれる多彩な「裸の付き合い」そのものに、
アブノーマルな要素が感じられない事も挙げられよう。確かに、イザベルとテオの関係はあまり正常ではないかもしれない。
イザベルに強要されて、テオは自慰行為の一部始終を見せるし、イザベルがマシューに抱かれる様子を見て、
テオは嬉しさと同時に妙な嫉妬心を抱く。その嫉妬心から逃れるように、テオは別の女を家に引っ張り込むが、今度はイザベルがそれに嫉妬する。
姉弟の狭間に置かれたマシューは、結局のところ彼らの深い信頼関係に入り込むことが出来ない。
『ホテル・ニューハンプシャー』や『セメント・ガーデン(「ルナティック・ラブ」)』といった映画でも姉弟間の恋愛は描かれてきたが、
『ドリーマーズ』のそれは、そうした映画とはいささか趣きが異なる。上記二作が、
姉弟間のセックスを物語のクライマックスに用意するほど特別視しているのに対し、イザベルとテオの関係は、
日頃の接した方が大胆であるのとは裏腹に、心情面ではウブでままごとのような幼稚な恋愛劇を生きている。禁忌の一つでも設定しておかねば、
人が性的快楽を蕩尽しようとする自由は輝かない、そんな理屈からあみ出された設定、と言いたくなるほど、近親相姦という言葉が想起させる
「重苦しさ」の感じられない関係なのである。二人の信頼は心の繋がりで描かれるにとどまり、性はその副産物のようだ。いずれにせよ、
これは近親相姦の映画ではない。彼らはたまたま姉弟だっただけであり、そうした関係を「ロマンティック」
と思う作家が撮った映画ということだ。そこが映画の全体的な淡白さに繋がっていると筆者は思うが、これは好みの別れるところであろう。
ベルトルッチが、この作品の舞台にした1968年に、どのような思い入れがあるかは定かではない。
パリのいたるところにバリケードが築かれ、サルトルが社会参加を呼びかける激越なメッセージを発し、
ゴダールやトリュフォーはその年のカンヌ映画祭を中止に追い込んだ。『ドリーマーズ』でも描かれるように、ベトナム戦争への反発が高まり、
毛沢東思想にかぶれる若者が激増した。しかし、その頃のベルトルッチは、遡ること62年に『殺し』で監督デビューを果たしており、第二作目
『革命前夜』('64)ではすでにコミュニズムへの懐疑とブルジョワ青年の虚無とを描いている。したがって、『ドリーマーズ』はヌーヴェル・
バーグや五月革命の回顧というよりも、多少なりとも自分の知っている時代を活用して、
金持ちの男女がひたすらセックスに励む様子を描くという、おなじみのベルトルッチ映画の図式をなぞっているだけ、ということもできる。
しかしそんな穿った見方をせずとも、この映画は十分に面白い。美しい男女の裸とセックスが、優れた映画詩人の手によって、
これでもかと手を変え品を変えて繰り出されるのだから――。
アメリカ人留学生マシューを演じるのは、中性的な色気を持つマイケル・ピット。時代がかった髪型や服装も見事に自分のものにしている。
彼にとってのファム・ファタールであるイザベル役はエヴァ・グリーン。その名前の優雅さに負けない華美な魅力で陶酔を誘う。彼女の風貌は、
映画史を彩ってきた多くの有名女優の断片で成り立っているような気がする。その意味については、実際に映画を見て確認していただくしかない。
言い添えて置くならば、『ドリーマーズ』は、はっきりと彼女の映画である。
テオを演じるルイ・ガレルも美しい。あのフィリップ・ガレル監督の息子、というブランドがなくとも、退廃と情念を混在させた瞳の力により、
その佇まいはつねに人をひきつける。
映画の劈頭とラストを締め括るジミ・ヘンドリックスの甘くて深い「サード・ストーン・フロム・ザ・サン」は、
往時の空気を蘇らせる効果があるが、同時に、「快楽」の何たるかを濃密に体現した音楽として、映画の主題にフィットしている。また、
『勝手にしやがれ』のジーン・セバーグや『フリークス』内の台詞が登場人物の口から軽やかにこぼれ、『トップ・ハット』や『暗黒街の顔役』、
『はなればなれに』といった映画の名場面が彼らの身振りによって再現される。そこにはある程度の閉塞した楽しさがあるが、劇場で
「俺には分かっているぞ」とでも言いたげな、不要な笑い声をあげる野暮だけは避けたいものである。
(2004.7.11)
主なキャスト / スタッフ
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