今週の一本
(2004 / 韓国 / リュ・ジャンハ)
しみじみ、くすくす、チェ・ミンシク的こころ

膳場 岳人

春が来れば1 最初から最後まで、満ち足りた気持ちでスクリーンに向き合い続けることが出来た。 しばしば涙腺が緩み、何度も笑いがこぼれた。淡々と積み重ねられるささやかなエピソード。どこまでもゆったりと進む長閑なリズム。 素直で嫌味のない人間賛歌。優しい熊のような佇まいで魅了するチェ・ミンシク。この日ばかりは誰に対しても優しくなれるような、 そんないい気分で、劇場をあとにした。

 不惑を越えて中年の危機に差し掛かっている音楽家のヒョンヌ(チェ・ミンシク)。恋人も失い、 仕事も干された彼は、生活費を稼ぐために炭鉱町にある中学校の吹奏楽部で音楽講師のバイトを始める。 朴訥とした部員たちはすぐヒョンヌに馴染み、町の人々も彼を歓迎する。 今度の全国大会で入賞しなければ吹奏楽部が廃部になると知ったヒョンヌは、部員たちを真剣に指導するのだが……という、 手垢にまみれた感のあるプロットだが、賢明なる監督は、さしあたって吹奏楽部の命運など小脇に片付けて、主人公ヒョンヌを演じるチェ・ ミンシクの魅力を引き出すことに尽力し、成功している。ズバリ、『春が来れば』はチェ・ミンシクのスター映画だ。

春が来れば2 もっとも、スターだからと言って、 彼は絶世の美女と恋に落ちるとか悪党相手に大立ち回りを見せるといった活躍は一切しない。むしろその逆で、 しょぼしょぼと背中を丸めて寂しい路地をほっつき歩き、ひっきりなしに煙草を吸い、女に捨てられて自棄酒を呷ったり、 いわれのない咎で若者に殴られたり、 時代遅れなギンギラギンの衣装に身を包んで場末のキャバレーでムード歌謡を奏でるハメになったり、 「トイレのドアを開けっ放しにしてテレビをつけながらでないとウンチができないの!?」と母親に叱られたり、 侘しい一人暮らしの住まいでインスタントラーメンを啜ったり、町中の子どもが罹患する眼疾にかかったりと、どこまでもかっこ悪い。 だが、かっこ悪いことがかっこよく映るのがスター映画の魔術だ。

 雨を避けて入った行きつけの薬局で、ついうたた寝してしまうヒョンヌ。 その仔犬のような可愛らしい顔への緩やかなズームなど、もはやベタ過ぎてパロディのようだが、彼が演じると嫌味にならない。 ふっと目が覚めると、雨はいつしか雪に変わっており、町の景色を一変させている。冬の到来を示すエピソードも、 こんな風に情緒たっぷりに描かれる。その一つ一つは無理なく物語にはめ込まれ、「語り」の習熟をうかがわせる。

春が来れば3 ガールフレンドにサックスを吹いて聞かせたいカッコつけの部員は、「ケニーGみたいになりたい」 と言う。ここで「コルトレーンみたいになりたい」とか「チャーリー・パーカーみたいになりたい」 なんて言ったらまったく別の映画になるのだが、ケニーGといういささか「大衆的」なプレイヤーを持ち出すことで、 彼の狭い世間と儚い願望がちょっとした憫笑を誘う。こうしたディテールにも、人間に対する監督のまなざしの深さが感じられる。

 このカッコつけの部員には炭鉱夫をしている偏屈な父親がいる。父は、 自分のように厳しい暮らしをさせたくないがため、吹奏楽部を強制的に退部させる。これも映画では定番のシチュエーションである。 この事態をヒョンヌが解決に導くシークエンスが出色だ。仕事を終えて坑道から出てくる父親の前で、ヒョンヌは部員全員を引き連れ、 「威風堂々」を演奏するのだ。どしゃ降りの雨の中、心を一つにして懸命に楽器を操る部員たち。 その濡れそぼった顔の一つ一つをじっくり捉えるキャメラ。やがて、 かつてないほどいきいきと指揮棒を振るヒョンヌと父親とが一つのフレームに収まり、父親の表情がふっと柔らかく変化する……。 こんなに手堅くも美しい演出をされては、落涙しないほうが難しい。

 ちっとも尖ったところがなく、インパクトもない。心を掻き乱すような感動もないし、 映画芸術に関する新発見があるわけでもない。けれど、まるでウール・グロスバードやノーマン・ ジュイソンが年老いてから放った良質な人間ドラマのように、心地よいヒューマニズムがじんわりと胸を温かくする逸品である。大好きです。

(2006.4.2)

2006/04/03/08:12 | トラックバック (5)
膳場岳人 ,今週の一本
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