
( 武田 秀夫 / パロル舎)
しばらくのあいだ、大きな仕事がいくつか重なったこともあり、試写室にあまり足を運べない生活をおくっていた。
だれかから「最近どんな映画観た?」と訊かれるたびにそうした状況を説明し、「いやあ、映画ライター失格ですよ」などと頭を掻いてみせる筆者だが、実のところ、あまり気にしていない。
それは、映画に寄り添う人でありつづけることとは、関係ないことだと思うから。
一般に映画批評家、映画ライターと呼ばれる人たちは、ふつうの人より映画をたくさん観ると思われている。じっさい、たくさん観ているのだろう。ジャーナリズムが新作映画の情報を伝えるスピードは、どんどん早まっており、それに対応するためには試写室に日参しなければならない。
けれど、ここに落とし穴がある。映画をたくさん観ることはよいことだ。しかし、映画批評家や映画ライターにとって、それは職業上、必要な行為でもある。そういう職業意識と映画を愛する気持ち(などと臆面もなく書いてしまうのは些か恥ずかしくもあるが)の微妙なバランスのなかで、私たちは文章を書く。
しかし、映画をたくさん観つづけていると、ときに人は、そのバランスを失ってしまう。まして入場料も払わずに、試写室でタダ見しているとなれば……。
先に筆者は、映画に寄り添う人、と書いた。
この「~に寄り添う人」という表現は、筆者のオリジナルではない。現代詩作家の荒川洋治がこんなことを書いている。
1.本をよく読むが、本一般に対して、情がうすい。
2.本はあまり読まないが、本一般に対し敬虔である。
ふつうは1が「読書家」と呼ばれる。だがちがうと思う。それほど本を読む習慣がなくても、ふと本を手にしたとき、それを物としてたいせつに扱うことのできる人、そういう姿勢をもつ人を1の「読書家」よりも上におきたいのである。
感想文をまじめに書くことだけがいいことではない。感想文は書かない。本好きではない。でも、本を物としてとらえ、観察することのできる人。そんな子供のほうが、ゆくゆくはおとなになってからも、本という物に、いいかたちで寄り添えるのではなかろうか>
(『本を読む前に
筆者は、おなじことを映画についても思う。映画をたくさん観る(観られる)ことは幸福かもしれないけれど、そういう人がかならずしも映画に寄り添っているわけではないのではないか。たとえ一年に数回しか映画館に足を運ばなくても、試写室に日参している人より、はるかに映画に寄り添っている人がいるのではないか。
武田秀夫は、まさしくそのような、映画に寄り添う人である。
『シネマの魔』(現代書館)、『映画的郷愁
』(パロル舎)などの著作で知られる武田氏が、久々に上梓した映画エッセイ集『子ども万華鏡』(それにしても、表紙の「CINEMA ESSAY」の文字と帯がなければ、映画の本であることすらわからないタイトルである)を書店で偶然発見し、読みはじめたとき、筆者は冒頭に述べたような、映画と直接的なかかわりの薄い生活をおくっていた。だからいっそう、映画に寄り添う人である武田氏の言葉に深い共感をおぼえた。
この本に収録された文章が書かれた時期の心境を、武田氏はこう回想する。
武田氏は、おそらく試写室に日参するようなタイプの書き手ではない。そういう生活をおくっている人からは、こういう言葉は出てこないだろう。これは、ジャーナリズムの外にいる観察者の視点から発せられた言葉である。時代の流れに歩調を合わせるのではなく、自分の生活に、時代を対峙してみせる人の言葉である。
武田氏は、だから映画を情報としてはとらえない(誤解なきよう付け加えておくが、ジャーナリズムの渦中にいながら、映画を単なる情報ではないものとしてとらえようとする批評家はいる。たとえば、芝山幹郎さんや中野翠さんがそうだ)。あくまでも自分の生活に出現する、一つの夢の断片として映画を観ている。
「ぼくの名前、羽がついてる」
「ああ、羊に羽。空をとぶという意味だよ」
「ふうん。馬に羽ならペガサスだったのにな」>
これは、武田氏が偏愛するピーター・イエーツの『ブリット』にまつわるエッセイの書き出し。
こちらは、ロバート・マリガンの名作『アラバマ物語』について綴った文章の書き出しだ。
その豊かな言葉のなかに、映画に寄り添う人ならではの生活がたちあがる。
(2009.8.2)

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