冒頭、真冬の街路を派手な半袖シャツでほっつき歩く男の姿を、
手持ちのキャメラが延々と追いかけつづける。たこ八郎を思わす坊主頭の彼は、不穏な顔つきと足取りであたりをうろつき、
バスを待つ人から煙草をせしめ、食料品店店頭にあるでっかい豆腐を持ち上げてかぶりつきながら、「これ売ってくれよ」と店主にせがむ。
そして、やはりというべきか、食堂で無銭飲食をやらかして警察署に連行される。そこで明らかになるのは、
彼が前科三犯の犯罪者だということだ。
「この男が主人公でなければいいが――」
誰もが、居心地の悪さを感じながらそう願わずにいられない。だが素行不良な彼の人となりをたっぷり描いたあと、
監督は輪をかけてショッキングな情景を我々観客に突きつける。貧しいアパートの一室に置き去りにされた、重度脳性麻痺の若い女性の姿である。
彼女は身体のあらゆる部位をいびつに硬直させ、それなりに整った顔を台無しにするほどにひん曲がらせて、我々を出迎えるのだ。
原一男監督の『さようならCP』(74)を見た者が、身体障害者たちが群舞する画面の連続そのものに強い衝撃を受けるように、イ・
チャンドン監督は重度脳性麻痺の人間が、存在それ自体で放つインパクトをしつこいほどに強調する。役になりきった女優、ムン・
ソリに肉薄するキャメラは、彼女の歪んだ顔を、湾曲した身体のすみずみを、これでもかと接写する。あくの強い演出にいささか辟易しながら、
我々は覚悟を決めなければならない。この映画は、情緒不安定な前科者と、重度脳性麻痺で始終顔を歪めている女性との恋愛物語なのだ。
もちろん、孤独な身体障害者・コンジュに扮したムン・ソリは健常者の新人女優にすぎず、前科者ジョンドゥを演じるソル・ギョングが、イ・
チャンドン監督の傑作『ペパーミント・キャンディー』(99)で忘れ難い演技をみせた優れた俳優であることは誰もが知っている。
にもかかわらず、見る者が彼らを現実に存在する人物としての複雑な感情を抱いてしまうのは、イ・
チャンドン監督の卓越した演出手腕と演技者の命がけとも言える力演のゆえに他ならない。
ジョンドゥもまた孤独なのだが、彼を孤独たらしめている原因は明らかに彼の側にある。
兄の勤める自動車修理工場から顧客の車を勝手に持ち出したり、うたた寝する義姉のバッグから紙幣を掠めとったりと、
その行動に凡そ同情の余地はない。悪事の最たるものが、身体の自由のきかないコンジュを手ごめにしようとするという、
正視に耐えない強姦未遂場面だ。しかもジョンドゥはコンジュの父親を飲酒運転で轢き殺して刑期に服し、つい先日出所してきたばかりだという。
あまつさえ彼には強姦未遂の前科まである。ジョンドゥが生まれつきの犯罪者とみて間違いないのは衆目の一致するところだ。
彼自身そのことは承知しているらしく、自分は刑務所の中で暮らすべきだという、後ろ向きな自覚を持っていることが後々明らかになるのだが、
それが露見するのは脚本の妙技が光るところなのでここでは詳らかにしない。
コンジュは彼女の家族にとって厄介な存在である。身のまわりの世話をしなければならないし、そのための金もかかる。しかし、
時にはちょっとした利用価値があるということも平然と語られる。彼女の兄夫婦は、
国がコンジュのために格安で貸与した広々としたマンションで暮らし始め、肝心のコンジュを貧相なアパートに置き去りにするのだ。
妹の世話は隣人の中年女に幾ばくかの金銭を支払うことで一任する。すると中年女は、コンジュの部屋を愛人との秘戯の場として利用し、
現場を彼女に見られるなり、開き直って行為を見せつけたりする。
ここで監督は、弱者によって照射される人間の醜悪さを告発しているわけではない。人間とはそういうものだ、
と余裕の笑みすら浮かべながらつぶやいているだけだ。
誰からもつまはじきにされてきたジョンドゥは、なぜか心を通じ合わせることの出来たコンジュと恋に落ちる。コンジュもまた、
それまでの窮屈な人生では有り得なかった、恋人を持つという幸せを得る。その始まりがいかなるものであったかは別にして。
ジョンドゥが恋人の衣服の洗濯にいそしむ場面は感動的だ。自分は無用の存在だという劣等感に苛まされてきた彼が、
誰かに必要とされているという喜びが実感をもって伝わるからである。
コンジュが見る幻想場面は美しいの一言に尽きる。電車でいちゃつくカップルを見ているうちに、
幻想世界では健常者である彼女はするりと立ちあがり、満面の笑みを浮かべながらそのカップルと同じ仕草をしてジョンドゥを困らせるのだ。
妄想は時として人の秘められた願望を赤裸々に抉り出す。考えてみれば、我々は皆、
浮世に生きる窮屈さを何らかの形で感じているのではないか。そのたびに自由を求めて夢を見る。甘く素敵な場面を想像する。
脳性麻痺の女性と健常者である自分とを同一視するのは短絡的だが、コンジュの幻想場面を通して描かれる感情の機微に、一切の境界線は無い。
だから人は、彼らがお互いを「将軍」「姫」と呼び合うことを許さなければならない。犯罪者が将軍になり、障害者が姫になる、という構図は、
君たちカップルがお互いをこっ恥ずかしい愛称で呼び合っているのと何ら変わりはないのだから。
終盤、映画はまるで怪獣映画さながらのクライマックスを用意し、恋愛映画としての盛り上がりは最高潮に達する。
常軌を逸した二人の行動が臆面もなく謳い上げる激しい愛の賛歌。それは夜の静けさを引き裂き、近隣住民の怒り、嘲笑、そして観客の涙を誘う。
それにしても、あの激情の迸りをフィルムに叩きつけるまでに、監督はなんと周到に劇を組み立ててきたことか。特に主題を象徴するある障害物
(いや、装置というべきか)の使い方が見事だ。それはタイトルバックの時点ですでに準備されており、
物語の随所で二人の絆を深める役割を担い、破天荒なクライマックスで存在意義を果たして消去する。
訪れる静謐なラストシーン。序盤で感じた当惑と居心地の悪さが、いつしかしみじみと優しい気持ちに収斂されていることに気付くとき、人は
「バリアフリー」という人口に膾炙された言葉の意味を、わずかながら実感することができるのではないだろうか。
目の前に重度脳性麻痺の女性がいようが、気の触れた前科者がうろつこうが、彼らも我々も同じ「単なる人間」にすぎず、彼らの存在にいちいち
「衝撃」を受ける必要などないのだ。
貫徹されるヒューマニズムは美しい。
(2004.3.7)
主なキャスト / スタッフ
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