エピックファンタジーの聖典にして全てのRPGの源流。
その壮大で完成され尽くされた世界観は、事実上映像化は不可能――。長らくそう信じられ続けていた一大叙事詩が、
本作をもって遂に完結を見る。
三つに分断されてしまった旅の仲間達の姿を同時に描き分けるという卓越した構成によって、
ヘルム渓谷の戦いでの勝利とオルサンクの塔への奇襲成功という熱狂の中で前作は幕が降ろされていた。それを受ける形となる本作は、しかし、
意外な地点から語り起こされる。それは指輪の前所有者ゴラムことスメアゴルが、
指輪の第一発見者である友人を殺害して指輪を強奪した顛末なのである。
この余りにも意表を突いた出だしは、もちろんフロドの最終決断という来るべきクライマックスに向けての布石であることは言うまでもないが、
物語がゴンドールの執政デネソールの錯乱に重点を置きながら展開されていくことによって、この冒頭に対するある種の戸惑いは解消される。
それは「指輪=権力」という図式が自然と理解されるからに他ならない。自らの力によらない仮の権力に執着し哀れな末路を辿るデネソールは、
ゴラムを筆頭にした指輪に誘惑されし者達の姿とピタリと重なる。指輪を巡る物語は、「権力への欲望」
という人間の本性に迫る部分を露出させる物語でもあるのだ。
また、絶えず指輪の誘惑に曝されるフロドは、「指輪の破壊」という大義に則っているようでいながら、
時にゴラムと共に指輪への露骨なまでの執着心を覗かせる。物語が進むに従って、主人公らしからぬ行動を取るようになる一連の描写には、
人間の危うさと脆さが見事に照射されている。
と言って、本作がニヒリズムに陥ることは決してない。本作は、アラゴルンやガンダルフといった偉人達を通じて、
欲望にまみれない人間の高潔さを高らかに謳う作品でもあるからだ。一途な愛や強大な敵に屈しない勇気、自己犠牲など、
様々なエピソードを駆使して人間の善なる面が劇的に描き出されているが、その全てを体現した人物がいる。
最後までフロドに付き従うサムである。王となる運命を負う戦士でもなければ、超人的な魔法使いでもない、ただの庭師が最大の英雄である、
ということは実に示唆的だ。
非凡な人間達によって物語を盛り上げさせるだけ盛り上げさせ、最終的にどこにでもいるありふれた人間をクローズアップする。
本作はこうすることで多くのファンタジーが陥りやすい、「熱狂的なヒロイズムの無条件の賞揚」
という罠を巧みにすり抜けているとも言えるだろう。確かにサム自身も、フロドによる指輪破壊の介添人という偉業を成し遂げた人物ではあるが、
それによって王冠を得たり、莫大な富を得るといったことはない。彼が最終的に得るのは、温もりに満ちた家庭、ただそれだけだ。しかし、
だからこそそれには王冠や財宝以上の価値があるのだ、というメッセージがストレートに伝わってくる。このことは、ミナス・ティリス攻防戦で、
決死の覚悟で戦いに臨む兵士達と彼らを送り出す家族達の悲痛な別れを、丹念すぎるほど丹念に描き出していることからも見てとれる。
このように家族を引き裂く戦争は、「普通の人々」と共に本作を貫く一大テーマでもある。人間が巨像に踏みつぶされ、
木切れか何かのように跳ね飛ばされ、或いはぱらぱらと高みから放り投げられるといった即物的な残虐描写の数々によって、
本作は戦争の身も蓋もなさに焦点を当てているが、全般的に泥臭い戦闘描写の中でレゴラスの華麗すぎる戦いぶりが、
妙に浮いて見えてしまうのはご愛敬と言ったところか。
とまれ、アラゴルンの戴冠後、ホビット庄で過ごすフロド達の長閑な日々など、「その後」
にまできちんと視野に入れたフィナーレはまさに大団円としか言いようがないものだ。最も重要な「ホビット庄の掃蕩」がカットされている為、
原作の愛読者には不満の残る部分が大きいかもしれないが、原作を未読の者には文句のつけようのない出来映えであろう。
とにかく長大な時間を片時も飽きさせることがない魔術的構成の妙に、ひたすら酔い痴れる3時間23分である。
当代屈指のクリエイター達による美術造形、実写と溶け込んだ超絶CGなど、デジタルテクノロジーの粋を凝らして映像化された本三部作は、
新世紀スペクタクル映画の金字塔と呼ぶに相応しいだろう。
(2004/03/01)
主なキャスト / スタッフ
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