映画「日本国憲法」はビデオ作品である。ビデオ作品でありながら、「映画」
と主張しているのには処々の意味があるが、多少奇異に感じる。
世界的にも珍しい平和と非武装を謳った平和憲法「第9条」の改正問題を扱ったこの作品は、憲法成立当時の様子を語る証言や、
アジア諸国やイラクの反応など、国際社会のなかで第9条のめぐる状況などに関するリベラルな立場の、識者、知識人、チョムスキー、日高六郎、
元CIAで政治学者、元GHQ民生局・憲法改正草案作成メンバー、韓国の歴史家など、総勢12名のインタビューによって構成されている。
日高六郎がGHQが作成した憲法草案以前に日本側が作成した草案に目を通して、家族と共にがっかりした体験談、
草案を作成したのがGHQであっても、
軍事政権による弾圧と戦争にうんざりした当時の民衆の気運はGHQによる草稿を圧倒的に支持したのであり、
押し付けという雰囲気はなかったという証言、朝鮮戦争の時代に日本を再軍備させるため、
アメリカのニクソン副大統領が憲法第9条は間違いだったと発言し、撤廃させる圧力をかけた事件など、面白い話は尽きない。
ほぼインタビューのみによって構成されていることによって、改正反対派からの強い視線はやわらげられているが、
かなり一方的な立場に立って制作されている。そのせいか、記録映画というよりも改正反対を主張する人々のための、資料集の趣きを呈している。
しかし疑問を差し挟まざるを得ないのは、リベラルな人々の発言だけによって構成されているということ以上に、
改正が取沙汰されることの社会的、政治的背景などにほとんど触れられていないと言うことだろう。憲法9条の改正は、
アメリカからのプレッシャーや軍事産業をめぐる雇用問題などのからみなど、実際には帝国資本主義の文脈が大きな影響力を持っているはずだし、
そこを争点にして憲法改正派の主張の欺瞞をつくことは、それほど難しくないはずだ。確かに、そのようなありきたりの陰謀論的視点は、
暴露を得意とするテレビニュースや、不特定多数の匿名者によるPCネットワーク上の議論に任せればよいわけだが、
それをしないことによってバランスは得られているが、作品の扱う「平和」が抽象的な主張になってしまっていることはいなめない。
そして改憲派の人たちが唱える、抑止としての「軍備」や「核兵器」を必要とする「平和」
との間でトートロジックな永遠の議論を起こすのは眼に見えている。そんな長い水掛け論の後に、権力による裁定のお出ましとなるわけだ。
ともあれ、映像作品によって社会問題を扱う場合に最も重要なのは、論理的な整合性ではない。
そもそも映像はその性格からして、常にある曖昧さと向き合わなければならない。
映像に登場する言葉の内容よりも影響力の大きい映像そのものこそが、
作家の主張と逆の意味へと誤解される可能性を大きく含むわけで、極端な言い方、
映像作品で確実に出来るのは問題の存在を広く知らしめるというになるのではないだろうか。主張を同じくする人々に向ける以外には、
人々に見られることによって、関心を広げるという事が最も効率のよい作品の意味になる。
そういった意味で興味を引かれたのは、作品そのものよりもシグロという制作兼配給会社の方法だ。
ホームページ上の作品ラインナップの中に含まれる、東陽一、橋口亮輔、などの劇映画や、佐藤真の作品と同じ扱いで、ビデオ作品である
「日本国憲法」が分け隔てなく紹介されていることもそうだし、78分という作品の長さも、
ビデオの機動性を使って制作費と製作期間を抑えるだけでなく、同時に劇映画と同じ扱いをしようという野心が伺える。ここで
「'映画'日本国憲法」が成立する。
コミュニティーTVや、民製DV機器を使ったビデオ・ジャーナリズムなどが、
ビデオを有効に使って新たなインフラストラクチャーを整備するなか、ドキュメンタリーの制作だけでなく、インターネットでの配信、
学生や社会人向けのワークショップによってドキュメンタリー作家をそだてるOur Planet TVや、
独自の配給方法を作り出すシグロなど、作品そのものだけでなく、状況作りも同時に兼ね備えた機関の動向は気にかかるところだ。
今後のシグロの動向が気になる。
(2005.4.18)
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