1988年に発生した「西巣鴨子供置き去り事件」をモデルにした本作は、
ジュブナイルと呼ぶにはあまりにも痛々しい作品である。一般的に、ジュブナイルと呼ばれる作品は、
その根幹に未来への肯定的な眼差しを胚胎しているものである。だからであろう、"痛み"を描くことがあっても、
それは超克すべきものという暗黙的な前提がある。だからこそ、この前提を実現する多くのジュブナイルは、「成長の物語」
として感動を誘いうるのだろう。しかし、本作においては、超克すべきものは何一つとして存在しない。未来に対する眼差しすらもない。
あるのはただ、堆積していく彼らの日常性だけでにすぎない。にもかかわらず、本作は紛れもなくジュブナイルなのである。
それもこれ以上にないくらい生々しく、リアルで、残酷なまでに劇的なジュブナイルなのだ。
極言すれば、親に遺棄された子供の日常を描いただけの本作が、なぜかくも子供達の心情に肉迫し得たのか。
勿論これには子供達から自然な表情や仕草を引き出した是枝監督のドキュメンタリー的な手腕による部分が大きいとは思う。が、
ここでは脚本の構造に注目してみたい。
通常のジュブナイルでは、登場する子供達は子供から大人へ一直線に進んでいく"成長"というベクトルに従う。しかし、
本作では通常の"成長"ベクトルに進む前段階として、「子供であることが許されない子供」という段階を踏んでいる。
ここが本作の最大のポイントで、本作では大人であることを強いられた子供が、
親の喪失によって子供本来の姿を取り戻していくことになるのである。それはある意味で、大人から子供への逆行と言ってよいだろう。この結果、
本作が描き出す子供達の描写は、偽大人期、子供期、成長期の三段階に分かれることとなり、各時期それぞれに風合いの異なる、しかし、
各時期特有の「子供らしさ」とでも言うべきものを鮮やかに切り取ることに、すなわち子供と大人の境界において体験するであろう全てを、
余すことなく描き切ることに結びついているのである。
本作が息苦しいまでの緊張を絶えず孕んでいるのは、子供だけによる都市サバイバル生活という余りにも無茶な、
そして破綻することが誰の目にも明らかな事態を前提としているからだろう。だが、それ以上に、
子供達の迎える運命を暗示する楔として打たれた冒頭シーンから始まり、先述の各時期に到るまで、
緊密で緻密な構成の中に子供達の情念を的確に捉えたカットを、丁寧に積み上げているからに他ならない。例えば、
偽大人期に見せる子供達の表情――母親が塗ってくれたマニキュアを眺める視線や外に出ては行けないというルールを健気に守ろうとする姿など―
―には、母親への愛情が痛ましいほど滲み出している。客観的に言えば、これ以上にないくらい酷い母親なのに。
それでも彼らはどうしようもなく母親を愛しているし、必要としているし、傍にいて欲しいと望んでいることが手に取るように伝わってくるのだ。
良い子にしていればきっとすぐに帰ってきてくれる――そんな子供らしい健気さと日常的に演じられている「大人らしさ」、
両者のギャップが大きければ大きいほど、子供達の母親へ思いは痛切なものとして我々の胸を打たずにはおかない。
だが、やがて子供達は子供達なりの仕方で現実に目覚めていく。ルールを破っても叱る母親はもういないのだ。
その哀しい現実はじわじわと兄弟達の中に浸透していくが、それは同時に、今まで強制されていた大人としての役割からの解放でもある。そして、
彼らはそこに制約のない全き自由が解き放たれており、ささやかな楽しみが溢れていることを少しずつ発見していくのだ。カメラは、
そうした子供達の変容を、子供が子供としての輝きを取り戻していく過程を、
子供の特権とでも言うべき放縦さや放埒さがじわじわと甦っていく様を丁寧にそして静かに追い続けていく。中でも、
初めて四人で出かけるエピソードが一際印象深い。常に人の目を避けて生きてきた彼らにとって、
それは初めて感じる充実したひとときであっただろう、全身の力をこめてありふれた遊びに興じる彼らの姿に、
これまでの彼らの生を思わずにはいられないはずだ。
しかし、楽園はいつも外部からの誘惑によって無惨に破壊される。明が願った夢、「兄弟四人で誰にも邪魔されることなく暮らしたい」
という子供じみていて、その実少しも子供らしからぬ夢は、「友達と遊びたい」という彼自身が抑圧していた、
子供らしい衝動を遠因にして無惨に潰えてしまう。陳腐かも知れないが、大切なモノはいつだって失われて初めてその価値に気がつくのだ。明が、
もはや二度と嘗てのようにはありえないという決定的な事実に気付くその姿は、どうしようもなく痛ましい。
恐らくその事実は決して消化されることのなく、終生彼自身の中で澱のように居座り続けるに違いないだろう。超克ではなく、
何かを受容しそれを背負って生きていかねばならない、そんな諦念にも似た認識の芽生えを描いている――その意味において、
やはり本作はどうしようもなくジュブナイルなのである。
リアリズムと詩情の奇跡的な融合という点で、邦画史上屈指の作品と言える本作であるが、致命的としか言いようのない瑕疵もある。それは、
作品序盤で挿入される万引容疑のエピソードだ。コンビニから出て行った明を店の店長が呼び止め、買い物袋に入っていたお菓子を取り上げて
「万引きしただろう」と難詰するが、身に覚えのない明は否定する。業を煮やした店長が「じゃあ警察へ……」と追い込みをかけようとした時、
従業員が明の潔白を証言したことで彼の嫌疑が晴らされ、「お詫び」として山ほどの肉まんを贈られる――悪くないエピソードだが、
実はこれは通常ではありえないことだろう。
そもそも、万引きを掴まえるには現行犯でなければならない。ゆえに「声を掛ける」に到るには、防犯カメラの映像なり、
自身が犯行現場を目撃するなり証拠が必要なのは自明であろう。が、この店長はそうした証拠を持たずに「声掛け」をしているようなのだ。
その証拠に、明の否認に対して、この店長はありきたりな質問はすれども、「防犯カメラの映像」を仄めかすことすらしないし、
店員の証言に対して「なんでもっと早く言わないの!」と憤慨すらしてみせる。証言に対する反応と合わせて考えると、
この店長はカメラ映像は疎か、犯行現場の確認をすら自らしていないにもかかわらず、「袋の中に店で扱っているお菓子があった」
といった程度の、極めていい加減な状況証拠で「声掛け」に到ったということになる。この店長の振るまいは、
どう考えても不自然すぎると言わねばなるまい。
もとよりこの作品には「まともな」大人が一人も登場しない。むしろ、登場する大人は皆、
ある種の厭らしさをまとわされていると言ってもいいだろう。先述の従業員に罪をなすりつけるが如く憤慨する姿や、
「みんなには黙っといてねー」と言いながらニヤニヤ笑いで肉まんを手渡す姿など、この店長がそうした「厭らしい大人」
の一人として意図的に描かれていることは間違いないのだが、この一連のシークエンスにはそうした部分を抽出したいという監督の作為が、
どうしても鼻につくのである。
こうした指摘は重箱の隅を突くような不毛なものだろうか?否、筆者はそうは思わない。なぜなら、後にこのコンビニが子供達の生命線となり、
少年にとっては外界へ繋がる数少ない門となることを鑑みると、このエピソードは以降の展開に絶対に不可欠な、
極めて重要な意味を帯びるようになるからである。コンビニの店員と少年との最初の接点となるだけでなく、
店長が少年の存在を容認せざるをえない根拠ともなっており、このエピソード無しでは物語が破綻しかねないと言っても過言ではないのだ。
それだけに、この場面のリアリティの無さは如何ともしがたいものがある。人物造形的にも作品構造的にも、
このエピソードには他では見られないほど露骨に、余りにもあからさまな形で監督の作為が見えてしまうがゆえに、
作品の完全性を損ねていると断じざるを得ないだろう。
しかし、である。そのような瑕疵があったとしても、是枝監督が本作で為したことはそれを補って余りあるものがある。なにより、
どうしようもなくダメな母親のダメさ加減を、否定も肯定もすることなくここまでしっかり描ききっているという事実、
これこそが筆者の脳天を直撃したことなのであった。柳楽がカンヌで主演男優賞を受賞したということもあり、
勢い子供達ばかりに注目が集まりがちであるが、ダメ母を演じたYOUの確かな存在感も決して見逃すべきではないだろう。なんにせよ本作が、
「本作以前」「本作以降」と分けて考えられるようなエポックメイキングな作品として、いつまでも語り継がれる作品であることは間違いない。
人物達の情念を鮮やかに浮き彫りにしてみせたこの作品が、これからの邦画にどのような影響を与えるのか、今後が楽しみである。
(2004.8.19)