(ネタバレの可能性あり)ゲイカップルの前に突然現れた独身女が引き起こす騒動を描いた「ハッシュ!」(02)が、内外で高い評価を得た橋口亮輔監督の6年ぶり新作である。前作では"家族"がメインテーマに据えられていたが、本作では超が付くほど几帳面でしっかり者の妻・翔子(木村多江)と"ずぼら"を絵に描いたような頼りない夫・カナオ(リリー・フランキー)という、性格が対照的な二人の約10年間の出来事が描かれる。
冒頭、翔子が遅く帰宅したカナオを「浮気してるんじゃないか」と散々なじりながらも、「今夜は『する日』だから、とにかくするよ」とセックスを半ば強要し、カナオが義務を果たすために渋々寝室へ向かう――という、二人のキャラを鮮明に浮かび上がらせた愉快なシークエンスにニヤニヤさせられる者は少なくあるまい。木村多江とリリー・フランキーの息の合った掛け合いそのものが実に生々しいのは言うまでもないが、何より感心させられるのは、この一連のシークエンスによって物語の前提条件がしっかりと打ち出されていることだろう。
この「週3回の定例セックス日」という珍妙な規則を巡る夫婦の問答によって示唆されているのは、「相互理解の不可能性」に他ならない。そして、相互理解が不可能であるからこそ、それを乗り越えるために人は他者に対する思い込み(=ラベリング)によって自分を納得させ、相手を理解した気になっていることが少なくなく、時にそれが理解とは真逆のすれ違いや誤解を生む素地にもなっている、ということを示している。
ここでは、カナオに対する一方的なラベリング――曰く「あなたがしっかりしないから」「ちゃんとやらないから決めている」etc――をすることによって、翔子はカナオという人間を理解したつもりになっているわけだが、カナオ自身は翔子によるそうしたラベリングに納得しているわけではない様子が、その態度にありありと滲んでいる。両者の認識に明らかな齟齬がありながらも彼らの関係がそれなりに成立しているのは、二人が互いのことを理解し合っているからと言うよりは、単にカナオが他者と向き合うことから逃げる人間であったからにすぎない。
後に、翔子は初めての子どもを亡くしたショックから鬱病を患うことになるが、病気の療養中に翔子が一人で中絶を決めてしまうシーンは、二人の関係性の断絶を象徴していて印象的だ。前後の脈絡がなく唐突に挿入されるのでやや不可解にも思えるが、これはカナオに対する一方的なラベリングの暴発と見るべきだろう。二人の関係性の放棄へと繋がっていく翔子の行動は、相互理解の不可能性を糊塗する思い込みの蓄積がもたらした悲劇としてあらわれるのである。
この破綻の危機に瀕する夫婦関係を追いかける一方で、翔子の兄夫婦(寺島進×安藤玉恵)や翔子の母(倍賞美津子)とのエピソードを絡めることで、「相互理解の不可能性」という本作の主題的問題を様々な角度から照射されている点が秀逸だ。
例えば、別の女に走った夫との別居が長い翔子の母は、夫婦という関係性を完全に放棄した人間=他者との相互理解に絶望ないし否定した人間として描かれているし、翔子の兄夫婦は相互理解よりも互いのエゴをぶつけ合うような――翔子夫婦とは対極のがさつな夫婦像として描かれている。
面白いのが寺島進扮する翔子の兄が、その昔プロ野球の選手として名を馳せた父親が世話をしていたトンカツ屋を、父に代わって世話をしてやっているのだと尊大な態度を示すが、実は陰で味噌汁に唾を入れられるほど二代目から嫌われていたというエピソードだろう。このように、本作では他者に対する一方的な理解と、その裏に隠されたすれ違いや誤解、対立を執拗に描くことで、相互理解の不可能性を時にユーモアを交えながら繰り返し炙り出そうとしているのが最大の特徴となっている。
と言って、本作はそうした「相互理解の不可能性」を指摘するだけの作品ではない。橋口監督は「相互理解の不可能性」を前提にした上で、心を病んだ翔子が再生する姿を通してどうするべきか、どうあるべきかを探っていく。そこで焦点があてられるのが、カナオの存在である。
当初は、翔子の作る規則に追従することで翔子=他者から逃げていたカナオだったが、法廷画家となり、社会の暗部を凝視することを余儀なくされたことで、彼は社会=他者と向き合うことを学んでいく。ラベリングによって他者を無理に合理化しようとするのではなく、他者の存在そのものをあるがままに受け止めるカナオのしなやかな優しさを通して、他者から理解されない/他者を理解できない苦しみに苛まれていた翔子の心は次第に癒されていくのである。その過程は、言うなれば「相互理解の不可能性」を受け容れて「(強迫的な)相互理解の不要性」を確認していく作業であり、翔子が恢復していく様子は夫婦のとりとめのない日常風景が主体であるにもかかわらず、不思議と胸を打つものが少なくない。中でもカナオが初めて翔子と向き合い、互いを縛り合わない緩やかな関係を築き始める端緒となる嵐の夜のシークエンスは出色で、夫婦の対話を描いたものとしては近年の邦画では屈指の名シーンと断言していい。
ただ、カナオが法廷画家として90年代に起こった様々な重大事件の公判を傍聴するシーンをもって、本作が「時代の空気」を掬い取っているかと言えば微妙なところだ。
確かに、宮崎勤の連続幼女誘拐殺人事件、オウム真理教のサリン事件、音羽幼女殺害事件(お受験殺人事件)、宅間守の池田小襲撃事件など、90年代を代表する事件を扱ってはいるが、被告の言動の一部だけを取り出したところで事件の背景は殆ど伝わらない以上、重大事件の公判風景を陳列したところで「時代の空気」が表現されているとは到底言い難い。特に重大事件の被告役を加瀬亮、片岡礼子、新井浩文といった芸達者な役者が熱演しているために、リリー・フランキーの存在が完全に埋没してしまっている点は作品として大きなマイナスだ。比較的長いタイムスパンをもった本作で、木村多江のように約10年の変化を演じ分けるといった表現技術のないリリー・フランキーにとって、一連の傍聴シーンはカナオの内面変化を描くことのできる数少ない機会であったはずだが、結果的にそれを潰す形になってしまっているからである。
寧ろ、不動産会社を経営していたためにバブルの恩恵とバブル崩壊を一身に受ける翔子の兄夫婦の様子、とりわけ安藤玉恵扮する兄嫁のファッションの変化の方が、よほど「時代の空気」を反映したものになっているだけに、作品全体で見ればアクが強いだけのノイズのようですらある重大事件に固執したことは、橋口監督のミスと言わざるをえないだろう。
「ゆるキャラ」のようなリリー・フランキーの自然体の佇まいが本作の魅力の一つであり、演技をしないことが強みでもあるのは確かだが、やはり彼の存在感だけで約10年という時間の経過を表現するという方法には、かなり無理があったように思う。素人役者であるリリー・フランキーを起用したことに関して、もう少し丁寧な配慮やフォローがあれば、本作は誰もが傑作と認める作品になったに違いない。それだけが、ただただ惜しまれる。
(2008.7.3)
監督・脚本:橋口亮輔 撮影:上野彰吾 美術:磯見俊裕
出演:木村多江,リリー・フランキー,倍賞美津子,寺島進,安藤玉恵,柄本明,加瀬亮,片岡礼子,新井浩文
6月7日(土)よりシネマライズ、シネスイッチ銀座ほかにてロードショー
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