イデオロギー的なモノをニュアンスに昇華する懐の深さを作り手が得たとき、戦争映画というのはとてつもなく面白く、
感銘深いものになる。ドラマが葛藤を描くという何を今更な前提でいえば、集団で生きるか死ぬかを賭けている状況というのは、
実にドラマチックである。往々にして闘いに参加するものには各々のワケがあるわけで、
銀幕に自分の姿を投影しがちなボンクラにとっては寄る辺ない心の託し場所が多様に用意されているのだから、これはたまらない。そこに、
"潜水艦"という舞台をあつらえたことで、「限られた空間での燃えるドラマ」をこれでもか!
と魅せられる期待を抱いたとしても不思議はあるまい。
また、その舞台というのが、ドイツの魔女に倣ったコード・ネームを持つ秘密兵器と艦橋に大砲2本という、
実際の運用には邪魔そうなハッタリを装備したスーパー潜水艦と聞けば、『海底軍艦』『マイティジャック』『バトルフィーバーJ』
におけるバトルシャークなど、海を行き空を飛ぶ、円谷英二~佐川和夫らが渾身の力で描いた日本のスーパー・
メカニックの系譜に新たな1ページが刻まれることを期待するのも当然のこと。30にもなって、国営放送にて再放映中の『サンダーバード』
を欠かさずチェックし、デザイン・ワークからミニチュアの操演までも自らこなした特撮監督デレク・メディングスの匠の技と「でも、
やるんだよ!」の根性に、改めて目頭を熱くしている私ですから。
『ローレライ』
原作:福井晴敏…『∀ガンダム』のノベライズを手がけ、尊敬する人物の筆頭に富野由悠季をあげるガンダマーだ。
年齢からするとトミノコ族だったのかもしれない。ガンダマーやトミノコの意味はあえて記さぬ。
監督:樋口真嗣…平成『ガメラ』シリーズで特撮監督として高く評価され、『太陽を盗んだ男』DVDの特典映像で熱い思いを語る、
違いのわかっている男だ。
70年代末期から80年代初めにかけて――私も人生に大切な感情の多くを、『無敵超人ザンボット3』
に端を発する土曜日夕方5時半から放送されていた日本サンライズ製作:富野喜幸監督のロボット・アニメにより学んだ(つもりになっている)
クチだ。「ロボット・アニメ」という制約の多い状況下で、圧倒的なアクション演出とこだわりのメカニック描写、
そして粋を感じさせるユーモアでたっぷりと視聴者を楽しませつつ、容赦なく展開された戦時下に生きる人間たちのドラマ。戦うものの苦悩。
不本意に戦いに巻き込まれる市井の民の生々しい声。時に自らの過失で、時に他者への愛に殉じて、
冷徹なくらいあっさりと死んでいく登場人物たち。それを乗り越えて生き延び、成長する若者たち――文部省推薦作も話題の超大作もトレンディ・
ドラマも――日本の実写映像のほとんどが目をそむけていたモノがそこにはあった。「皆殺しの富野」なんて悪口も言ったが、
それは彼の監督作に感動した自分への照れ隠しだった(*富野喜幸監督は現在"由悠季"と改名されており、
そこにはある想いがこめられていることを承知していますが、私にとって一番馴染み深い時代のお名前で記させていただきました)。
なので、この作品のメイン・スタッフが「アノ世界を実写で!」と目論んだ気持ちは痛いほどわかる。
少なくともその試みが劇場で公開されるフィルムに焼きつく段階にまで達したことは、わがことのようにうれしい。
この作品には、過去にはアニメの国のものでしかなかったが、実写映像化すれば魅力的であろうと思えるアイテムがずらりと並んでいる――いや、
白状しておくと自分は"萌え"という概念が欠片も理解できていないので、それを狙ったと思しきアイテムが出てきた瞬間に関しては、
安手のAVか?と失笑してしまったのだが、それは私が時代遅れの人間だから、と納得している――そして、それらは確かに映像化されてはいる。
ララァがいたね。戦場に歌が流れるってくだりには『超時空要塞マクロス』も思い出すよ。アル中の機関士は佐渡先生でしょ?
松本零士アニメでおなじみの。うろ覚えになっているものも多いが、
並べられたアイテムのほとんどのネタがわかる自分のような人間にこそ向けられた作品なんだろうなあ、きっと。
だが、その見せ方がいかにも行き当たりばったりに感じられたのが大変残念だ。
映画化を前提に書かれたという原作は、ブ厚い単行本で二冊というボリュームなので、いかにこれを圧縮するかが当初の課題ということになる
(残念ながら脚本は未読)。連続ドラマならばとにかく、2時間程度の映画においてその作業が困難であることは想像できるが、撮影にゴー・
サインを出すには、少々心もとない脚本であったのではないかと推察する。ナレーションの語り手はころころ変わり、
思わせぶりに画面に映り込む人物がなんのフォローもなく退場する。そこに貫徹された意図は見出せなかった。
CGの技術的な部分に関して言えば、リアリティ以上にカッコイイ画面、というのが樋口氏の特撮演出であるのは知っているので、
彼が小松崎茂画伯のプラモの箱絵的なビジュアルを目指したとしても特に何か言う気持ちはない。ただ、そこで監督が何を伝えたいのか?
重さか? 強さか? 畏怖か?は最後までわからず、ただ記号としてのみ潜水艦が存在していたように思えた。
これはCGの出来不出来とは別の問題だろう。
さて、ドラマ、というか人物描写はどうかというと、登場する男たちはみな理想を持ち、過酷な状況に身をおいていることが説明は、される。
また、80年代中盤以降のアニメに深く思い入れている人間にとっては既視感のある「けなげに可憐に重武装で闘う女の子」
の新種を提示したことで、喜ぶ人間も少なからずいるであろうとは思う――
恐らくはそれこそがこの作品の肝でありウリと製作者たちは提示していると思える。だが、それらはアイテム以上のもの、
イベント以上のものとしての機能を示しているようには思えなかった。その問題点が顕著に現れるのが、
感情移入が非常に困難なシチュエーションで敢行される主要人物の死だ。
富野演出のアニメでも散々に人が死んだ。主人公である孫たちを守るために、おじいちゃんとおばあちゃんが特攻し、
ペットの犬まで戦いに巻き込まれて死んだ時には腰を抜かした。だが、それに俺が感動し、
アニメだからと馬鹿にするような連中のほうがおかしいとガキながらに思い、最近繁殖した、
その死の描写だけを取り上げて知ったかぶった笑いを浮かべる連中に殺意を覚えるのは、その死んでいく彼らの歩んできた道、
そして生き残る者に託す想いがきっちりと描かれていて、それを俺は確実に受け止めたからだ。ドラマの状況としては無駄死にであっても、
その人物の命が消えたことの重みは伝わってきた。それを伝えるには『ローレライ』の人物描写はあまりにおろそかではなかったか。
観客は"死"というイベントに感動するのではなく、"思い入れた人物の死"に、それが実写だろうがアニメだろうが、
心を揺さぶられるのだから。
この作品では、あらゆる事態がただ起きるだけであり、人物は登場するだけ、退場するだけのモノとしか扱われていない。こちらが観たいのは、
何か事態が発生した際にそれに人間がどう対処するかのリアクションであり、その心の動きなのだが、
そんな事を無視したように上映時間は過ぎる。ディテールの配置に腐心する前に、
監督にはいったい何を伝えたいのかをはっきりさせてもらいたかった。なのに、この作品には、それを伝えるのに必要な物語――というより、
それを語るべき演出がごそっと欠如している。
単にイベントが起きるだけなら、それはゲームと変わらない。だいたい、手元にコントローラーの無い観客は、どこに思いをぶつければいいのか。
小説版を読めば、もっと理解出来るのかもしれない。だが、『2001年宇宙の旅』を例に取れば、
あわせて鑑賞すればより奥深く味わえるのは確かだが、やはり、映画も小説もきちんと自立しているべきであり、
お互いにぶらさがることは許されないだろう。
物語を語りえていない物語の中でどんなイベントを起こそうとも、それはスポイルされる。『ローレライ』
と題して映写された2時間強のフィルムにつきあい私が得たものは、完成していないものを見せられたような、放置プレイのような、
なんともむずがゆい気持ちだったというのが率直なところだ。
だが――『ローレライ』という作品が、これで途絶えて欲しくはない系譜を誕生させた点は特筆してもいいことなのだと思う。
メイキングがついてくるのが当たり前となっている世代の悪い癖でしかないが、実は散々にカットされて話がわからなくなっているだけで、
ディレクターズ・カットの全長版は実に面白い――なんて妄想を抱きたくなるくらいには、期待の持てる世界であることは強調しておきたい――
本末転倒と思われるかも知れないが、これもまたひとつの率直な感情だ
今必要なのは、もう一度物語を語ることの意味を作り手が自身に問いかけることだろう。私も、
物語を味わうことの意味を自分に問いかけておきたいと思う。そのうえで、この系譜の新たな作品と向き合いたい。
ここまでたどり着いたのだからあともう一歩――進んで欲しい。ジャンルや状況は違うが、『さよならジュピター』
の轍をまた踏むようなことになったら、それは大きな損失である。
ただ、ローレライの「秘密」が明らかになった瞬間の私の心のうめきは記しておきたい。
――萌えてる場合じゃねえだろ! 燃えろよ、先に!
(2005.3.4)
主なキャスト / スタッフ
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