今週の一本
(2005 / アメリカ / アン・リー)/div>
ドラマとは完成されたシステムか?

針部 ろっく

 なかなかの傑作だった。鑑賞しながら、登場人物の中に流れる時間を感じることが出来た。また、 1963年のワイオミング州からはじまり20年に及ぶ話だが、 20年の話がある程度の尺の中におさまって何がしかのまとまりを持って見れてしまうというのはどういうことかと、 劇場を出たあとに気にかかりはじめた(上映時間は134分)。とはいえ考えはそこから先には進んでいなくて、今言えるのは、 登場人物の中の時間の流れを感じることが出来たということが契機になって、改めてその疑問を持ったのだろう、ということぐらいだ。 映画はだから「主人公の20年の任意の抜粋の集積」ということになるけれど、ただ単に20年を経ている話だからそういう「時間を感じる」 という事態が起こるのだ、という簡単なつなげ方には、多分ならない気がする。

 ところで、新藤兼人の言葉に「脚本は100%技術である」というものがある。「人間を描く」 とよく言われる通りに、脚本が描くものとはドラマであり、ドラマを通して描くものとは人間であろう。もし脚本が100%技術であるなら、 それが技術として頼られて描かれるドラマも人間も、ある一つの決まった型を持っているということでなければ話がおかしくなる。 対象に未解明なところがあるのに、技術として100%というのは成り立たない。だから、ドラマも人間も完成された一つの体系(システム) であるということになる。
 これは「脚本が100%技術である」とすることに異を唱えようとする文章ではないけれど(支持や賛成するわけでもなく、 ただ話のきっかけとして使っただけですが)、もし100%技術であるなら、脚本は誰が書いても同じ結果にならなければおかしい。 セリフの言い回しが違うとかの些末ではなくて(大事じゃないとは言っていない)、理屈としてはそうだということだ。
 ドラマが完成されたシステムであり、脚本は誰が書いても同じということはどういうことか。 それはすでに結論が出てしまっているということではないのか。ドラマという法則に則って描かれる人間像というのは、 すでに輪郭のハッキリしたもの(解明済みのもの)なのではないのか。風俗を変えたり、視点を変えてみても、 描かれる人間像自体はどれも同じ次元に収まるものなのではないのか。
 だから、映画がドラマに則ってはじまるとき、テーマもキャラクターも先の展開も、すでに想像の範囲に収まることで、鑑賞することは、 すでに結論が出ていて面白さの保証されたドラマというシステムが、滞りなく働いているのかの確認作業でしかない。だから、 冒頭五分や十分見れば作り手がどんな話をどうやってやろうとしているか分かってしまう(ので、DVDなどでの鑑賞の場合、早送りしたり、 もう見ない)という事態が起こる。映画を見てそれを「傑作」と言うときも、それは「ドラマというシステムの稼働率が高い」 という意味で言われる、ことが多い。

 では、作り手においてはどうか。きっと、ドラマというシステムが完成されたものであるから、 監督や脚本家は技術者であり職人ということなのだけれど、システムとして完成されたものであるなら、 その中での振る舞いが問題にされるだけで、彼らは新しく(というか別の次元で)ものを考えるということが出来ない。 考えることで別の次元へと移行できない。そこにはヴァリエーションがあるだけだ。しかし、これは現実を言い表しているだろうかと疑問は残る。
 筆者個人は「傑作の雛形」という言葉をかつてよく用いて考えたけれど(以前別のレビューで「ドラマにはまる」という言葉を使ったが、 それもここら辺りに繋がって来る)、理屈の上では、ドラマというシステムに則る限り、どんな人間を描いても傑作にはしうるということになる (簡単に出来るとは言ってない)。あとは考える作業が必要なだけだ。人間を描くのだから、その人間のことをひたすら考えれば、 映画の形は自ずと見えて来る。あるいは、その人の技術が向上するのを待つだけだ。だから、「あとは時間の問題」ということになる(この 「時間」こそが実際の制作上では問題になるんだけど)。
 ジャクソン・ブラウンは作曲という行為について「(ある程度出来たら)あとは時間の問題だっていつも思うんだ」 と言ったことがあったけれど、ポピュラー・ミュージックというのも、だからひょっとすると完成されたシステムなのかもしれない(でなければ、 音楽におけるドラマ性が、やはり完成されたシステムということなのかもしれない。まぁ全然違うかもしれない)。

 こう書いて来ると「そんなこと言うなら傑作を書け、書けるもんなら書いてみろ」 という声が聞こえてきそうだが、実際出来るかどうかは今は関係なくて、完成されたシステムを前提とするなら、 システムの内にプラトンでいう個々の映画のイデアみたいなものがすでに見えてしまっているのではないかということを問題にしているわけです。 だから、事前に想像したことが映画の内容と合致しているかどうかの実際を問うのでもなくて、 想像できてしまうような作品は受け手にすでに準備が出来てしまっているということで、それはすでに「見る前から知ってる」 ものでしかないのではないか。
 映画を大衆芸術というけれど、大衆というのは、受容のコードが同じ人々ということで、 ドラマというシステムはこの大衆としっかり結びついている。ゆえに商業映画というものが成り立つのであるし、エンターテイメントというのも、 ドラマというシステムが商業と結びついたところにあるということになる。

 ところで、作り手というのは作る行為の内にものを考える人たちと言って外れていないと思うけれど、 彼らが考えることは、ドラマという枠に収まるものか、あるいはそうではないか、ということがある。というより、 商業映画という枠が先立ってあるために、その中で考えることを強いられるということなのだ。これは、ドラマがシステムであることを越えて (というかそれ以前に)、商業映画における映画製作そのものがシステムであることも示している。そして、そのシステムとは、 いい悪いは別として、とても強固なものだ。
 保坂和志は「小説は小説を読む時間の中にしかない」と書き、エリック・ドルフィーは「音楽は音楽を聴く時間の中にしかない」 というようなことを言った。小説と音楽と映画は、言葉と音と映像という違いはあれど、それがある一定の時間を通して表現・ 受容されるという点で共通している。しかし、もしドラマも人間も前もって完成しているのであれば、映画は映画を見る時間の中に存在する前に、 システムの中に完結してしまっている。だから、「見なくても分かる」。きっとこういうことなんだろうと、想像がついてしまう。果たして、 映画は完成したシステムの内にすでに存在しきっているのだろうか。あるいは、見る時間の中にしかない映画というものはあるのだろうか。

 ここで話は冒頭に戻るんだけど、筆者は登場人物の中に流れる時間を感じた、と書いた。これはあるいは、 映画を見るという行為の中でしか感じられないことではないか。というか、これはドラマというシステムの想定内の効果・現象なのだろうか。 そうではないのだろうか。筆者にはよく分かっていない。
 しかし、時間の流れとは、多分、リアリティのことで、リアリティとは、 その表現から何がしかの切実さを受け取っているということでもあって、 それはその登場人物がただそこにいるというそれ自体が一つの驚きや感動や感銘となって現われてくるものでもあるのだが、それでもやはり、 それがドラマが事前に意図できるものなのかどうか、ドラマというシステムを越えたところに起こる現象なのか、筆者には分かっていない。 あるいは、脚本が映像になった段階で何かが変わるのだろうか。別のものが生まれるのだろうか。それは、映画というものが、 生の人間と生の風景(つまり俳優とロケーションということ)を映し込んでいるということと、いくらか関係しているのかもしれないのだが、 いずれにしても、筆者にはうまく考えられていない。

 で、それでもやっぱりドラマは完成されたシステムなのかというところに話を戻すけれど、 その前にジャズのことを少しばかり。まずバップの隆盛があって、60年代にかけてモードやフリーが台頭してきたわけなんだけれども、 モードやフリーは、バップとは異なるイディオムをもってして、バップが表現していたこととは異なる様相を表現できたはずだと思うのだが、 筆者はまだそこまでうまく聞き取れていない。しかし、表現形式が変わるということは、表現できる内容も合わせて変わるはずだ。というか、 ミュージシャン(人間)の中に、バップのイディオムに収まりきらない部分(内容)が先にあったから、 モードやフリーという別のイディオムが可能になったということ(のはず)なのだが、では、 ドラマはそれに取って代わるイディオムが登場するのだろうか。それはつまり、ドラマというイディオム(システム、表現形式、何であれ) の中に収まりきらない内容(人間の様相)が人間の内にあるのかどうかということでもある(だから、ただ単にドラマがないだけの映画は、 全然別の事態だ)。仮に何かあったとしても、それを形にするに当たっては商業映画においてはまず成立しないとは思うのだが、しかし、 すべてドラマで足りてしまうというのは、何か見て見ぬふりをしているようなところがある気がして、 どうにも座りが悪いと感じるのは筆者だけだろうか(「ドラマにはまる」という言葉はここにも響いてくる)。

 例えば、「ジェリー」は、ただ男二人がぶつくさ喋りながら丘陵をテクテク歩いているだけで面白かったし、 「運命を分けたザイル」は、ただ男二人が氷山をちまちま登っているだけで面白かったが、ここにはやはり生の人間と生の風景というものがある (ついでに言えば、フィクションなのかドキュメントなのかどこか曖昧なところがあるという点でも共通している。 この志向を過激にさせていけば、脚本が不用になるという事態は充分に起こりうる。というかすでに起きている)。んで、 その人がただそこにいるだけで飽きない映画というものが可能かどうかなど夢想したりもするが、それ以上はやっぱり分からなくて、 それでまた先人の言葉ということになるんだけど、かつてウェイン・ショーターが「(長年作曲をして来て分かってきたことだけれど) 結局は感じたことの全てが理論になるんだ」と言ったことがある。これは考えれば考えるほどすごい言葉で、 凄まじい研鑚なしには言えないことだけれど、こちらに勇気を与えてくれる言葉でもある。

 で、蛇足になるが、「ブロークバックマウンテン」の前に、同じ劇場(新宿武蔵野)でやっていた「the MYTH 神話」を見た。大傑作だった。ジャッキー・チェンの映画が(今のジャッキー・チェンの映画が)こんなに面白くていいのか。 何度でも言うが、世界映画史上でもっとも偉大なのは、ジャッキー・チェンだ。ジャッキー・チェンには昔から生の肉体があった。 それはこじつけというものだが。また、もう一つの可能性はギャグ映画にあると筆者は考えている。徹頭徹尾ギャグしかない、 そういうギャグ映画だ。しかし、今はギャグ映画なんて作られてさえいない。ギャグとして通用するものが見つからないのかもしれない。

(2006.3.26)

2006/03/27/07:35 | トラックバック (18)
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