今週の一本
(2006 / 日本 / 堤幸彦)
映画を嫌いになる50の方法

針部 ろっく

 サイレンを見てきました。ゲームの映画化だそうです。唐突ですが、ゲームで感動するということはあるんでしょうか。映画やテレビドラマを見ているとまれに起こるような「ドラマ的なものに起因する感動」という意味です。グッとくる感動。筆者の少ないゲーム経験ではそういった感動が起きたことがなくて、「ゲームの映画化」という話を聞くたびにこのことを疑問に思います。映画としてどう面白くするつもりなんだろう、という考えが働くのでしょう。
 ゲームの特異性というのは、プレイヤーが自分でキャラクターなどを動かすこと自体に楽しさがあるということのような気がします。ゲームにおいて、プレイヤーはマリオのジャンプの高さや走る速度を微妙なボタンの押し加減で調節できるわけですが、映画に照らし合わせるとそれ自体がすでに脅威です。映画では、観客が主人公がどう話すべきかセリフを決めたり、主人公がどこへ行くかを決めたりできるわけではありません。観客の行為は、座席に座ってスクリーンを二時間ほど眺めるというただそれだけのことに尽きます。作品の内容はすでに完成されたものとして、こちらの触れえぬものになっています。
 また、ゲームでは、コントローラーを握ることなしに、他者がプレイしている画面を脇から見ていても、その面白さや醍醐味は体験できないでしょう。ゲームにおいてはプレイヤーこそゲーム世界の当事者であり、その存在なしにはゲームは一歩も進みません。ゲームは、自分で操作してゲーム世界を進んでいくこと自体が、面白さに直結しています。

 かたや映画では、観客はスクリーン上の出来事に対してあくまでも第三者です。観客は、すでに固定化完了された世界を見せられて、面白いとかそうでもないとか判断するというわけです。面白いか、あるいはつまらないか。もちろん、そんなにザックリ分けられるわけではありませんが。
 そこで問題になるのが、映画の面白さとゲームの面白さが違うということです。実に当たり前のことですが、その面白さが違うことを踏まえた上で、ゲームを原作に映画化するということになった場合に一体どうするのかということです。このことは女子に相手にされないがために仕方なく足繁く劇場に通うような男子にとって、しばしば重要視される問題です。作る側の誰かが頑張らなければ、彼らは映画から見捨てられたと感じ、一人ブツブツ文句を言うしか能がなくなるでしょう。めでたしめでたしです。
 スクリーンに何も投影させないで「劇場の闇が、あるいはあなたの脳裏によぎるイメージのすべてが、ウトウトして見たその夢が、映画なのです。このまま二時間座ってあなただけの映画を楽しんでください」と言い張ることも可能ですが(この場合、制作費は激安です)、映画はいずれにしろある程度の尺のあるストーリーが必要なわけです。ストーリーはともかくとしても、尺が必要なわけです。つまり、その必要不可欠な尺の中にあって、映画はどんな要素で観客の興味をラストまで引っ張っていくかということです。

 「ゲームにはドラマ的感動があるのか」という最初に呈した疑問は、つまりそのゲームの主人公に観客を感情移入させて映画で描くことが可能かどうか、適当かどうか、ということに繋がっていきます。もし、原作のゲームにドラマの芽があるならば、その方向で処理していくことは無理な相談ではないでしょう。むしろ、どんなドラマを盛り込むかという手続きから考えるのが、ごく一般的なやり方と言えるでしょう。まぁ人によるかもしれませんが。
 あるいは、ゲームにはドラマの芽はなくて、ゲームがゲームゆえに楽しいというタイプのものであれば、そのゲーム特有の要素を追求していくべきでしょうか。例えばドンパチとかお化けとか。そういったアクションやホラーの要素などを映画に移し替えて、どう面白く見せられるのかという観点から攻めていくというのも一つのやり方でしょう。この場合、ドラマの濃度がある程度低減することもありますし、そもそもドラマが必ずしも必要とは言えないともいえますが、いずれにしてもストーリーとそのテリングは重要となります。ポイントポイントの面白さだけではなかなか観客を引っ張るには足りないからです。また、原作にドラマがないのなら、映画化に際して新たにドラマを作るというのももちろん一つの手段であります。

 まぁ適当なことを言ってますが、取れる手段はそう数多くはないと思います。要は、どういう指針を取るか、どこに特化するのか、どこを見せ場にするのか、そういう目標を明確にしておかないことには、易々と映画化には取り掛かれないということです。例えばゲームと同じアクションを見せるにしても、ゲームと映画では面白さが違うので、ただ惰性にゲームの中身をトレースするばかりでは、それは映画としては決して面白くなりようがないわけです。
 それで話は今回見た映画のことになります。原作ゲームをやったことがないのでゲームと映画とどこがどう同じか、あるいは違うかなど分かるわけもなく、想像だけで無責任に言うのですが(何しろ他に言うこともないので)、映画化に際してどう取り組むべきか検討された形跡がどうにも見出せませんでした。

 ある曰くつきの島に三人の家族(父・娘・弟)と飼い犬が渡ってくるというところから映画ははじまるのですが、市川由衣演じる主人公が、弟がいなくなったといっては「ヒデオー?」と探し、父がいなくなったといっては「おとうさーん!」と探し、犬が見当たらないといっては「なんとかかんとかー?(失念)」と探す。すぐに誰かがいなくなり、市川由衣が島を探して回る。ただそればかりの映画でした。その曰くとは島民の集団失踪であるとまもなく示され、現在の島民たちも何か後ろめたい秘密を引きずっているようなのですが、そもそもこの秘密自体を、どうも作り手が把握しかねているのではないかという印象さえ受けました。それで話が面白く語れるはずもありません。全体として、一体何がやりたいのかはっきりしないというのが感想です。

 映画の面白くなさとは、ストーリーに乗れないだとか、キャラクターに感情移入できないだとか、理由はともあれ、スクリーンの中の出来事に白々しさを感じることにあります。そのとき、映画と観客は大きく乖離しています。ゲーム第一作の構想段階から映画化も考えられていたのか、第一作がヒットして二作目を作る段階で映画化が考えられたのか、この映画が作られた経緯は知りません(ゲーム第二作は完成しているようです)。調べてもいません。うへー。また、映画化を検討する際に、原作にどう取り組むか考える余地が必ずしも作り手に与えられるわけではないということもあるでしょう。副次商品にありがちなことです。と聞いています。しかし、常にボーッとスクリーンを見ているだけの筆者のような人間でも「もっとなんかないの?」と思います。映画として面白くするために頑張ったのが主役に市川由衣を持ってきたことだけだったというのでは、あまりに偉すぎる、じゃなくて、あまりに淋しすぎることではないでしょうか。

 今回、偶然、連れと一緒に鑑賞しました。この連れは劇場で年に十本も映画を見ない人物です。この連れが上映終了後に発した第一声がふるっていて、「つまんなくてビックリした」、これであります。平日昼間の鑑賞もたまたまレディースデイとあり、場内は若い女性と、市川由衣ファンなのか原作ゲームファンなのか区別のつかない若い男子たちが半々、座席の3割弱程度を占めていました。中には筆者の連れと同じ感想を持った人も多いかもしれません。また、原作ファンがこの映画化をどう思ったか、実に興味深いところです。それ以前に、原作ファンを本当に劇場に引っ張ってこれるのかどうかはなはだ疑問であったりもします。が、観客動員数ランキングを見る限りでは、原作ファンも多数来ていると考えるのが妥当のようです。いずれにしろ、上映中に客が映画に恐れひるむような気配はまったくありませんでした。

 少し話は飛びますが、映画のつまらなさにビックリできるだけまだマシであるのは、数多く映画をご覧の方々は分かると思います。しかし、映画がつまらないのは前提も前提、大前提です。そういう前提の中でいくつかの映画を見ていると、まれに、つまらないだとかなんだとか言う前に、色んな事情から内容を考えるのが諸々面倒になって、ついには「作れるだけラッキー」(そして「ギャラが出るだけラッキー」)ということしかなくなった作り手によって作られたのではないかと思いたくなるような映画に当たることがあります。あるいは筆者だけにそう感じられることかもしれませんが、熱心なファンの方でもそういった映画の数本はすぐに挙げられるかもしれません。しかし、前述したように映画はつまらないのが前提としてあるので、どんなにつまらない映画でもその作り手は誰が反省するわけでもありません。前提があるゆえに、「こんなもんじゃない?」と一般のお客さんの投げやりな納得の中に映画は消化され、取り立てて責められるでもないというのも一つの理由でしょう。

 元も子もないことを言うようですが、(作り手が、作ってる映画の、質や内容を)いちいち気にしていたら健康がもたないという話もあります(健康というのは、深刻なレベルで、の話です。何事にも「程度」というものがあります)。余計なことを言ったらクビになるだけという話もあります。この辺は共同作業ということもありますから一口には言えないことではあるのでしょうが、しかし、本当に、作れるだけラッキーなのであります。ギャラが出るだけラッキーなのであります。例えば、「脚本は生業である。以下云々」という某大家の有名な言葉がありますが、脚本は仕事でありますからしてひとまず自身の文学性なんて引っ込めときましょう、と戒めるような言葉だったと記憶します。(脚本に限った話ではなくという意味で言うのですが)しかし、これが仕事であると言うのなら、ではギャラが出ないのに映画のことを考えなきゃいけない謂れなどどこにもない、はずです。まぁ、理屈としては合ってます。そんな気がします。多分そう外れてません。しかも、仕事として最低限と思われる程度にも中身をよく考えない方が、実はそれを生業にできる確率がどうにも高そうなのです。このとき「脚本は生業である……」という言葉の後には、「だから余計な頭は使うな。それが映画としていかがなものかなんて考えるな」ということになります。技術もへったくれもありません。あるいは、逆に言えば、ギャラが出ないなら(あるいはスズメの涙なら)自分の好きに何やったっていいじゃあーりませんか。という言い方も成り立ちそうな気がしないでもあります。

 何より、作られない映画はそれだけで悲惨です。生業どころの話じゃありません。ついでに言えば、作られない映画を脚本という形で数多く抱え込むのが、脚本家という人たちです。映画に携わる人は基本的にイケてない人々ばかりですが(なぜなのかは謎です)、その中でも脚本家が特権的にイケてないのはこの事実と決して無関係ではないかもしれません。作られなかった脚本は「諦めきれない夢」といった類のものですが、無用の長物以外の何物でもありません。ゴミです。カスです。クズです。思い切って棄てましょう。
 まぁ、ケースバイケースで、適当なところで納得してやっていくのがいい、シメるとこだけシメられればいいんじゃないのという程度の話ですが、もし本当に「作れるだけラッキー」ということだけしか残らなかった場合、「映画なんてどうでもいいと思ってるでしょ?」と問われたら首を縦にコクリとさせなければいけません。しかし、作るためには映画を嫌いになることも一つの手段であります。それは実践的な手段として充分に成立しています。まぁ、余計なことは考えないことです。考えるな。そして感じるな。実に上等であります。
 それからゲームは一日一時間までにしましょう。ついでに映画も一日一時間までにしてみると、思わぬ効果が期待できるかもしれません。

(2006.2.20)

2006/02/20/18:53 | トラックバック (1)
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