1950年代の半ば過ぎに、中平康や増村保造らは当時の通常の映画に比べ2倍以上もあるセリフを詰め込み、古い情緒と戦った。
1940年代のビ・バップの演奏家たちは四分音符300ps近いスピードで演奏し、前世代の演奏家を寄せ付けなかった。
彼らは古い価値観の持つ権威をドラスティックに失墜させようとした。
時間芸術としての映画の縛りに比べ、漫画は読むスピードが読者にゆだねられているため、
慣れれば簡単に小説でも得られないスピード感を体得することが出来る。そのスピードの前には「理解」し味わうという余裕は、
一見するとありえないようだが、駅売りされるメジャー少年漫画の世界観は、シンプルなドラマのクリシェによって、
スピードを体感しながら味わう新たな「情緒」と「感動」を導き出している。漫画世界の登場人物の意外にシンプルな「情緒」や「世界観」は、
スピードと量によって、独特の世界を作り出すことになる。
宮藤官九郎の一連のドラマで特徴的な手法に以下のようなものがある。物語の展開を高速なスピードで、
ひとつのシークエンスをシンプルな一続きのシンプルな意味の連関として提示し、展開の中にある世界観自体はさして荒唐無稽ではないのだが、
物語の論理を時間軸上で高速に行き来させ、物語の関連性のブロックを多層に詰め込むことにより、「理解」し味わう時間を極端に少なくする。
例えば「木更津キャッツアイ」では、前半と後半を野球の表回、裏回にわけ、表回のエピソード郡の関連性を、
時間軸をさかのぼらせた裏回によって紐解くと言う手法を用いた。そこには謎解きに参加させようという意図などは毛頭なく、
そのスピードに乗る事自体が目的になり、物語はそれを成立させる為の一要素にすぎなくなる。
スピードによって振り払われる物語的クリシェの拒否は、身体的なレベルでの嫌悪をもとにしている為、だからこそ若者の特権ではあるのだが、
対象を本質的に亡きものにすることはなく、新しさの絶えざる更新へと向かわざるをえない。
それが産業革命以降の資本主義のもつ加速度が作り出す「新商品」とのアナロジーをなしているのを見逃すわけには行かない。
つまりお茶の間では常に新番組が待たれるわけだ。
宮藤官九郎初の監督作品「真夜中の弥次さん喜多さん」の冒頭、伊勢神宮までのバイクによるひとっとびを否定するのは象徴的だ。
この冒頭シーンで、気をつけねば物語のスピードに振り落とされると言う不安感と、ギャグが横滑りしてゆくことへの覚悟をうながす。
連発されるギャグの落ちは放り投げられ、どこへも行き着かず、突然やってきた落ちは笑いを呼ばず、物語に引き込む装置としても働かない。
登場人物たちのキャラクターも、必要以上に物語を引っ張ることはなく、この奇妙な世界観は、不要なスピードを持って語られるわけではないが、
観客をほんの少し後ろにおきざりにすることによって、奇妙なスピード感を作り出す。
やはり覚悟が必要だったと確信させられるのは随分後になってからだ。このオフビートのコメディーでは、
ナンセンスな可笑しみを味わう時間は十分には与えられない。
しりあがり寿の漫画は絵と特異な物語の展開からも、もちろんスピードを味わうのに向いたマンガではない。宮藤監督はこの作品世界を、
観客に置いてきぼりを食らわせる奇妙なスピード感をもつ展開の中で捉えた。もちろん漫画を知っていたら、
このスピード感はだいぶ違ったろうし、さらに宮藤監督の原作への愛情の強さに感動させられるだろう。たとえそのことを考慮に入れたとしても、
この作品は十分野心的な作品だ。
(2005.4.27)
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