今月の注目作
(2005 / 日本 / 宮藤官九郎)
落とし前はまだ――

佐藤 洋笑

 笑い――特にパロディという形で示される笑いには、その対象や状況に対するメランコリーというか、 ニヒルというかの感情が根底にある――と思う。絶望を目の前に笑うしかない。対象を笑い飛ばすことでなんとか事態を乗り切る(つもりになる) 。――筆者自身にも覚えのある感情だ。プチ左翼の元ヤク中や、シベリアで列車の映画でも作ってろ!と言いたくなるホモの肥満児に、 ほんの一時期とはいえ……雇われて賃金をもらっていた屈辱的な日々に代表される恥の多い人生を何とか生き延びてこられたのは、 この種の笑いが身に染み付いていたおかげだと思います。 

 1980年代から90年代初頭にかけて、そうした笑いを表現しえた多くの傑作パロディ・マンガがあったが、 しりあがり寿はその流れから登場した才能の中でも、比較的世に知られたマンガ家の一人だろう。

 当時、しりあがり寿は酒造会社の宣伝部員を勤めつつ、週末はマンガ家という兼業作家だった。 筆者が中学~高校時代に触れたしりあがり寿の諸作品は、そうしたキャリアの人ならではの視点というか批評性を感じさせるもので、 その世間から一歩ひいた距離感は時代の空気にもマッチしていたように思う。だが、90年代半ば、酒造会社を辞して職業マンガ家になって以来、 しりあがり寿はそうした笑いから数歩踏み出し、腹が据わったとしか形容しえない、堂々と直球勝負な作品を送り出している。1996年の 『瀕死のエッセイスト』あたりから顕著となり、2000年には『方舟』という恐るべき一作に結実した一連のメメント・モリ―― 死を想起させる物語の数々で、彼は不可避な終局を描き続けている。しかも、どの作品も非常に滑稽で、単純に、 十二分に笑えるマンガとして成り立たせている。『真夜中の弥次さん喜多さん』(およびその続編、小説版) はそうした一連の作品の中でも特にポピュラリティを獲得した作品だ。そこには、達観というか、凄みというか――逃避でも拮抗でもなく、 淡々と終局を受け入れるような世界観が描かれ、呆然とするような説得力で読後の腹に一物を残していく。

 その『真夜中の弥次さん喜多さん』を宮藤官九郎監督で映画化すると聞いた時には、何か出来すぎた話のようにも思えた。

 宮藤官九郎の、個人ではどうにもならない状況を生き抜くツールとしての、本音を守る鎧のような笑い―― 80年代のパロディやお笑いと同種の、軽やかにふざけるほど粋になれない"血反吐交じりのはしゃぎぶり"からは、作者の (自分のものだけでなく、他者の作品も含めた)表現行為に対する"揺るぎない"愛情と、 それらが置かれている状況に対しての"揺るぎある"絶望の交錯を感じる。21世紀を迎えて早5年、どことなく漂う"ドン詰まり感"―― 常識どころか倫理さえもブっ壊れてしまったように思える世界――をイイにつけワルイにつけ体現する彼の笑いに、 私個人は"ノレる"クチである。

 まあ、彼の巨乳アイドル相手の痛々しいオドケぶりには引いてしまうし、グループ魂とかは鼻につくけどね。私とほぼ同世代―― 30代初頭から20代末期の人間の宮藤官九郎作品を巡る、いささか過剰とも思える毀誉褒貶は、私以上に、 彼の活動を決して軽く扱えないが全面肯定もできない困ったチャンとして受け止めている人が多い証のようにも思える。

 しかして、選りによってレディース・デイに、ジャニーズや大人計画に無心にのめり込んでいる若い娘さんたちに混じってノコノコと映画版 『真夜中の弥次さん喜多さん』を観に行ったわけだが、場内の盛り上がりぶりはこれこそ興行といった感じで心地よく、 私も2時間強の上映時間中、最終的には正確に25回、声を上げて笑った。

 常日頃"ヤングを見たら敵だと思え"的な言動を繰り返す中年一年生ゆえ、意外に思われるかも知れないが、私は演技者・長瀬智也には、 その何を演じても長瀬智也なアクの強さも含めて、ケッコー好感を持っているので、 本作でも遺憾なく発揮されたなりふり構わぬアバレぶりは心地よかった。中村七之助のあざといホモぶり、 ジャンキーぶりも個人的にはツボだった。芸能人は芸を見せてナンボと改めて思い知らされた次第。 七之助のお父上の愚かしい暴れぶりも芸能者としての気概あふれるもので、この映画の笑いどころのひとつの頂点としてオススメしておきたい。

 ただ、手放しの絶賛というわけではない。次々と繰り出されるギャグに無心に笑うにはトウのたった中年一年生の目からすると、 映画版は露悪的なわりに肝心のところは照れ隠しされているように思えて、鑑賞後、ちょっとムヅガユサを感じた。

 そのムヅガユサとは、原作者と監督の視点の違いが軋みをあげている瞬間とも言える。要するに、原作では"死"はすでに対象化され、 笑いはそれと向き合うための手段となっているのだが映画版ではそこにいたらず、笑いの刺激自体が目的となり、現実―― この場合は作品のテーマって所でしょうか――逃避の手段として機能する場面があまりに多すぎたように思うのだ。監督第一作でいきなり、 しりあがり寿の達観に到達しろとは思わないが、もう少し正面切って挑んでもよい題材だったのではないだろうか。興行的な側面から見て、 "いつもの宮藤組"的な安心感を感じさせる豪華出演陣と、彼らから引き出すギャグは必須だったろうが、肝心なところでそこに逃げこみ、 その場を笑いで濁してハイおしまいはいかがなものか。特に後になって不愉快に思い起こすのが、冒頭のニュー・ シネマへのオマージュ丸出しのチョッパー・バイクの疾走が無粋にも止められてしまうくだりで、"このまま突っ走っちまえ! "と観客が心の中で叫んだ瞬間を見計らって作者が自己規制するのは少々いただけない。ドラマツルギーだの何だのとはいわん―― それだけが映画の楽しみではないことは重々に承知している――が、一度口に出した冗談――それこそ、 監督独自の視点を放り出すのは反則だと思うよ。その場面も、そこだけ切り取れば非常に笑えるギャグだっただけに、余計に残念に思えた。

 落とし前はまだ――ついていない。つけて欲しい。個人的には、いっそしりあがり寿の『真夜中の弥次さん喜多さん』以上の問題作『方舟』 あたりに正面切って挑んで欲しいとも思う。あれを実写化しえる技能と業界的ポジションを持つのは、今は宮藤官九郎しかいないだろうし、 今回の作品を第一歩に、そのまま突っ走りきる宮藤官九郎監督作を見てみたい。そこで行き着くところへ行ったとき、落とし前がついたとき―― はじめて彼のやっている事の意義が、狭いコミューンの外へと伝わるのではないだろうか。いや、現状に満足されていて、 外野の人間に伝えるモノなどない、そんな事をする意味もないと思っておられるのなら、冒険はされないほうがよいと思いますが。

(2005.4.13)

2005/04/30/09:15 | トラックバック (0)
佐藤洋笑 ,今月の注目作 ,真夜中の弥次さん喜多さん
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