映画「GO」('01)や「ピンポン」('02)、TVドラマ「池袋ウエストゲートパーク」
「木更津キャッツアイ」('03には劇場版脚本執筆)、また舞台では7月31日からの東京公演を皮切りに全国を巡業する「鈍獣」
が控えるなど、クドカンこと宮藤官九郎は当代きっての人気脚本家である。村上龍の自伝的小説を脚本化した本作を観れば、
一般視聴者のみならず業界関係者からの信頼も厚いことで知られる彼の人気の秘密が理解できるだろう。これまで「宮藤官九郎」
という脚本家を意識したことがない人にとって、"クドカンワールド"を知るまさにうってつけの入門作品と言えるのではないだろうか。
危ないネタの数々を、鮮やかに演出してみせた李相日監督の手腕も大きいが、本作が痛快・極上の"クドカン"印の作品であることは間違いない。
タイトルが明示するように、本作は高校3年生のケンとアマダらが過ごした1969年の暑い夏の日々を描いた青春グラフティである。
全共闘の最盛期、高校生といえども学生の多くが社会と政治を意識していた――
そんな硬直したイメージで語られがちな時代を背景にした作品でありながらも、本作はそうした「時代性」
を完全に無視するかのような軽薄で底抜けのギャグが溢れており、そのどれもが滅法面白い。いや、面白いと言うよりも愉快なのだ。
中には一歩間違えれば観客を引かせかねないような自爆寸前のネタも含まれているが、
全編にテンポ良く鏤められたギャグはそれなりに笑いを誘わずにはおかない。スローモーションによる絶妙な演出が、
マンガチックでナンセンスな笑いを増幅させており、どんな人でも多分3回は吹き出してしまうことだろう。
オカタイと思われていた世代と時代を描きつつ、
"あの時代"を知らない若い世代にも難なく受け容れられるように捌いてみせたクドカンの手際は見事としか言いようがない。しかも、
そうした時代的な雰囲気を「11PM」を筆頭にした数々の小道具による緻密なディテールの積み上げという形で最低限押さえることで、
"あの時代"を過ごした世代には郷愁を誘うような作品たり得てもいる。全ての年代の人が、
世代を超えてそれぞれのスタンスで楽しみ味わうことのできる抱腹絶倒の娯楽作なのである。
ただ、娯楽作としては文句のつけようのない本作だが、時代的な硬い要素を最低限にしか押さえていないことで、
やや懐の狭い作品になっている面があるのは否定できない。冒頭でウッドストックに集まった裸の姉さん達の写真が挿入されるが、本作もまた、
彼らヒッピー同様、「ラブ&ピース=エロと笑い」を武器にすべきだ、という含意が見てとれる。
だからこそ本作は笑いをベースに構成されているし、また、笑えなければならない。しかし、ここにある「エロと笑いを武器にすべき」
という姿勢は、本質的に当時のメインストリームであった「思想と闘争で社会を変革すべき」という姿勢に対するアンチテーゼ/
カウンターとしてあったのではなかっただろうか。いわばそれは、
思想や闘争に対する不毛さを直観的に知っていた者が到達するべくして到達する確信であり、
全ての革命運動が既存の体制に対するニヒリズムに基づいているのと同じ意味で、
思想や闘争が尊重される時代の雰囲気に対するニヒリズムに基づいていたに違いない。ゆえに、笑いを武器とした本作ほど、その矛先である
「全共闘」の実像に迫る必要があったはずなのである。なぜなら、この作品のメインターゲットである若い世代の殆どは、
全共闘という運動の意味を知らないからである。簡単な示唆だけでは理解し得ない以上、
硬直した全共闘運動の姿がもっと描かれなければバリ封を茶化してみせるという、壮大な悪戯も随分と色褪せてしまうのは必定だろう。
結局のところ「退屈な奴らに、俺たちの笑い声ば聞かせてやるったい!」と言い放つケンは何を笑ったのだろうか。
単純にノリと勢いだけに総てを賭けた若さの疾走、その喩としての笑いでしかないのか。であるならば、
ケンが放つ哄笑は行き場もなくただ刹那的に響き渡るだけにすぎない。確かに本作は社会的な状況説明を思い切りよく切り落とすことで、
誰もが笑い楽しめるわかりやすさを備えた普遍的な青春映画に仕上がっている。ただ、
それによって深みのないスラップスティックなだけの作品に留まってしまったことも明らかであり、それが実に惜しいと思った次第である。
(2004.7.15)
主なキャスト / スタッフ
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