近年日本で製作された娯楽活劇としては大変な力作である。しかし、引っかかる箇所、当惑を覚える描写があまりにも多すぎて、
筆者には総じて楽しめなかった。優れた「活劇」とは、色々と"引っかかる"不完全な細部を持ちながらも、
最後には話の整合性やらバランスやらを突き破り、感動的な「映画の水面」に急浮上するものだろう。
この作品はそこまでの破壊性を持っていないどころか、すべてが箱庭のなかで展開されているかのようなチープな雰囲気を漂わせてしまっている。
非現実的な質感のCG合成や、海水や鉄や汗の匂いが伝わってこない潜水艦内部の描写がそうした印象をもたらしているわけではない。
どことなく焦点の定まらない演技陣の芝居のせいでもない。制作者がシナリオで示した「戦争」に対する思考が、まさに「模して楽しむ」
箱庭のように矮小なのである。中でも最悪のものが、クライマックスで潜水艦の艦長・役所広司が妻夫木聡に向かって言い放つ
「大人がはじめた戦争」にまつわる薄ら寒い台詞だ。戦争映画のクライマックスがNHKドラマ「中学生日記」もかくやの「正論」とあっては、
男泣きの感傷も急激に盛り下がろうというもの。ここでは戦場にいる者同士だけに通じる、無言の雄弁こそを活用して欲しかった。
もっとも、筆者はこの映画を語るのに相応しい書き手ではないと重々自覚している。この映画を論じる文面にしばしば名前の挙がる、
「ガンダム」や「宇宙戦艦ヤマト」を含んだアニメーション全般にあまり思い入れがない。いくばくかの戦争体験記は読んだが、
架空戦記モノは一冊も読んだことがないし、原作者福井晴敏の小説も未読のままだ。潜水艦映画は好きだが、特撮映画が好きなわけではない。
筆者が本作に期待していたのは、太平洋戦争末期を舞台にしたミゼラブルな潜水艦映画――ウォルフガング・ペーターゼンの『U・ボート』
のような――であり、昔、夏になるとテレビで毎年放映されていたような、若者たちの散り際に悲壮感が漂う、ある意味凡庸な和製戦争(反戦)
映画なのだった。そんな保守的な客に対して、この映画は徹頭徹他人行儀を押し通す。
それでも開巻、堤真一と役所広司が交わすドストエフスキーの『罪と罰』をめぐる会話には胸騒ぎを覚えた。周知の通り、
ラスコーリニコフが本当に殺したかったのは金貸しの老婆でもその妹でもなく「自分」なのだが、さしあたってそれが「神」
と読まれるだろうことは想像に難くないからだ。では「神」とは何を指しているのか――。物語のすべては、
堤真一演じる海軍軍令部作戦課長の朝倉大佐が握っている。彼は東京に原爆を落とし、首都の完全な破壊を企図する。彼はナチスドイツが開発し、
現在は日本の海軍が保有している謎の兵器「ローレライ」を米軍に引き渡す見返りに、東京へ「第三の原爆」
を落すよう米軍と裏取引をしたのである。
この眉目秀麗な裏切り者の行動に疑問を抱く人は多いだろう。大空襲を受けて半壊状態にある東京を、
なぜにことさら破壊し尽くす必要があるのか? 敗戦を眼前に控えた混乱の中で、
軍上層部の戦争責任を追及する冷静さをこの人物はなぜ持ちえたのか? その行動の理由を堤真一は色々と台詞で説明するが、
どうも釈然としない。いや、客にははっきり分かっているのだが、登場人物があえて言及を避けているといった按配なのだ。
原作の小説でどう描かれているのかは定かでないが、要するに彼は天皇陛下の戦争責任を問うているのである。それが『罪と罰』
などを使って語られる「神殺し」の実相だろう。そうでなければ、
わざわざ焦土と化した東京を完膚なきまでに焼き尽くすことの意味が分からないではないか。
いや、これを明確に描くことができなかったという理屈は筆者にも分かる。だが、それならば、
原爆を搭載したB-29を撃墜するために米軍の大艦隊へと特攻するイ507の乗組員たちの中に、「天皇陛下をお守りするために特攻する」
という人物を配置するとか、そういった工夫は必要だった気がする。筆者は別に国粋主義者ではないし、「兵隊が死ぬときは"天皇陛下万歳!
"ではなく、"お母さん"といって死ぬんだ」といったたぐいの証言もたくさん見聞きしてきたが、問題はそういったところにあるのではない。
傑出した人材と巨費を投じて製作された大作の、真の劇構造を霧の中に暈してしまったことで、活劇の荒々しい生命力が殺され、
中和されてしまったということが、酷く悲劇的なことのように思えるのである。そんなぼやぼやしたドラマ世界の中で、
ピエール瀧の殺伐とした細いまなざしが、凶々しさを孕んで際立っていた。
(2005.3.6)
主なキャスト / スタッフ
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