今月の注目作
(2004 / 日本 / 原 一男)
変貌する女。立ちつくす男たち。

佐藤 洋笑

 思えば10年近く前、この映画のコンセプトは監督本人から聞かされていたのだ。

 主人公は〝知華〟という一人の女。体操選手として挫折し、70年代の混沌の時代の波にさらわれるように、流転していく〝知華〟 の人生を彼女が関わった4人の男たち、そして1人の息子という5人の男たちの姿を交えて、 第1章から第4章までのストーリー+エピローグで構成した、原一男監督作品『またの日の知華』。

「4人の男たちに愛された1人のヒロイン〝知華〟を、その愛の遍歴にそって4人の女優が演じる」という鮮烈なコンセプト。 2000年には撮影を開始しながらも、資金難から一旦は製作中断。だが、熱烈な支持の元、キャスト変更などを経て、 2004年遂に完成という紆余曲折の道のり――そして、〝知華〟を演じた女優の一人、金久美子さんの公開を待たずの死。

『さようならCP』('72)、『極私的エロス・1974』('74)、『ゆきゆきて、神軍』('87)、『全身小説家』('94) といったドキュメンタリーの鬼才として知られる原一男が自らの原点である60~70年代を背景に「基本的にオーソドックスに」「女性を描く」 と宣言し、初めて挑戦した劇映画は公開前から大いに話題を呼んだ。満を持して公開されたのは、そうした話題すべてを呑込む、 圧倒的な力で迫るものだった。

『ゆきゆきて、神軍』という、とんでもないドキュメンタリーをモノにした監督が一席ぶつと聞き、 彼の講演を拝聴しに出かけた人間の中に20代初頭の私はいた。90年代の半ばと記憶している。私を含む――創作や表現に興味はひかれつつも、 それを突き詰めて考えていたものは皆無だったろう――有象無象に向けて原の口から放たれた「ドキュメンタリーは虚構である」 「撮られている人たちは、明らかに演じて見せてくれている」といった、演出家の主観云々といった理屈を越えた、 肉体感覚あふれる演出論は刺激的だった。トドメに、「一人の女性の人生を、複数の女優が演じる」 というコンセプトの劇映画へのチャレンジを控えめに、だが力強く宣言して終わったカッコよすぎるその講演に、深い感銘を受けつつも、 私はニヒった笑顔を作った。

 ――すごい作品を作る人だが、俺の目指す世界とは違う――などと。

 当時、かの奥崎謙三に対して〝珍獣〟を見る以上の気分を感じていなかったサブカルかぶれの青年には、原一男の目――情熱の滲みすぎで、 聴講者の向こうを見ている、焦点がぼやけた深く黒い瞳――は〝ヤバイ〟ものとしか見えなかった。私は、 世間とうまく立ち回りたい臆病な若造だった。

 手元の『CINEMA SQUARE MAGAZINE No.189 またの日の知華』所収のプロダクション・ノートによると、 本作の構想が立ち上ったのは1996年の夏とあるから、うすらぼんやりとした記憶と付き合わせると、あのとき、 原は創作の神を召喚したばかりだったのだ。そんな男がほとばしらせる〝異物〟に、若造は自分の狭い世界を守るのに精一杯だった。 そんな私を含む聴講者を飛び越えて彼が見ていた遠くが(原のフィルモグラフィでは珍しくないとはいえ)8年以上の歳月を費やす消耗戦の末に 『またの日の知華』という映画に結実し、スクリーンに映し出された時――ちょいと戸惑ったことは告白しておこう。

 第一章(〝知華〟=吉本多香美)は、原の言う「オーソドックス」というのは、〝安普請〟を意味するのか?と疑いたくなる世界だった。 往時の安保闘争の記録フィルムに挿入される田中実の機動隊時代の姿は画質の変化が興ざめするほど著しく、 ロケーションにはしばしば70年代には存在しなかったファッションや商品が紛れ込む。一昔前のテレビドラマを見せられているような映像に 〝あの原一男作品〟と構えているこちらは大いに困った。これらは、金の問題云々ではなく、 ちょっとしたテクで目を反らせられる部類の事柄だからなおさらだ。一度、そう印象づけられると、灰色にくすんだ海岸線で田中の背中に〝知華〟 が額を寄せる様も、彼が兄ではないかという〝知華〟の妄想も、唐突に語られる〝知華〟のセックスと死にまつわる一家言も、田中の病の告白も、 あまりに〝安く〟見えて、失望感を高めていく。さらに背景に徹するでもなく、 楽曲として突出したものを感じさせるでもない音楽が白けた気持ちを掻き立てる程度に耳に残り――私の中では、時期を経るごとに変貌していく 〝知華〟を4人の女優が演じるってのも、似ても似つかぬ4姉妹が並び、週明けに田中裕子が泉ピン子に変身する、 橋田壽賀子の投げやりなキャスティングと何が違うんじゃ、という気持ちがもたげていた。

 だが、第二章(〝知華〟=渡辺真起子)に至って、映画は加速を始める。第一章の豊満な肉体を失った〝知華〟の前に、彼女の輝いていた時代― ―それも第一章で描かれる以前の〝知華〟の姿として、繰り返し挿入される体操選手時代の少女のイメージ――の記憶に囚われた田辺誠一が現れ、 セックスを強要する。そして、劇的に変貌した〝知華〟の前に、病み上がりの哀れな姿であらわれる田中実の姿。 田中実はさわやかな笑顔を振りまくこともままならず、大きな体を折り曲げ、 居心地悪げに連合赤軍のテロルを中継するテレビに見入ることしかできない。 田辺誠一にしても無様にケツをふりつつ乱雑なセックスに持ち込む以外に〝知華〟に何の影響も与えることはない。そのくせ、 第四章までちんたらと〝知華〟に関わり、無様な姿を晒し続ける。「男たちそれぞれの目からはちがった女性に見えるから」 というコンセプトの凄みがわかるのは、変貌した〝知華〟にとっては〝過去の〟男たちの姿が現れるこの第二章以降だ。

 第三章(〝知華〟=金久美子)で描かれる〝知華〟を姉のように、母のように慕う青年、小谷嘉一 (彼は第一章にもちらりと少年として登場する。撮影の中断が少年を青年に成長させ、結果、より鮮烈な印象をもたらした)の若さと、〝知華〟 の現状からの脱出願望の浪漫は、観る者に一瞬の清涼感をもたらす。小谷は実の姉の性的趣向に嫌悪感を示しつつも、〝知華〟(吉本と金という、 女優の個性としては正反対であろう二人)にイドのレベルで自らの〝男性〟をアピールし〝知華〟はそれを慈しむ。だが、小谷は〝知華〟 の脱出に立ち会うことなく、この映画から消えていく。田中も田辺も同様に、男たちは惚れた女の変貌に何の手出しもできず、見せ場も無いまま、 消えてしまう。それでも生きている〝知華〟の姿に、もはや観る者は目を背けられなくなる。第一章で感じた不満が、 すべて周到なお膳立てに思えてくる頃、映画はさらにアクセルを踏み込み―― 疾走する。

 第四章(〝知華〟=桃井かおり)にて〝知華〟の行き着く果ては、ワイルド&ダンディ=夏八木勲なのだが、 ここでの夏八木の余裕ある佇まいは、成長を経て包容力を得た成熟した男などではなく、ただ単にくたびれているだけのものだ。 恐らく無頼でトンマな若き日々を過ごしたであろう、夏八木の腕に刻まれた文字が象徴する、男の年輪も事態に何の変化ももたらさず、〝知華〟 を受け止めることもない。なのに、田中も田辺も小谷も差し置いて、夏八木はこの映画に、いたって無造作に、カタストロフをもたらしてしまう。 その瞬間の夏八木勲の喜びも哀しみも知り尽くした、いい歳をした男の〝徳〟を感じさせる顔といったら――私は〝知華〟 の人生を確かに目撃した。彼女と関わりあった男たちと同化してしまったような感覚に苛まれつつ。だが、彼女の中に何があったのかは、 今もわかってはいない。

「基本的にオーソドックスに」演出し、「女性を描く」と原は強調している。だが、完成した映画の肝は――原のインタヴューなどからは、 それと思しいことを発言していることが確認できるが、宣伝では前に出されていない――いつの時代も変わらずに存在するであろう〝男〟 の視点で徹底された演出に他ならない。第二章以降も、70年代の背景としては首をかしげる場面が散見されるのだが、 そんな事を問題に感じた私を恥じさせるのは、女についてわかったふりを一切せず、わからないからこそカメラを向け、克明に女を追う様が、 違う時代を生きている私にも〝身に覚え〟のあるものだからだ。

 その演出を挑発した脚本は、男の視線を意識しつつも女から男への視線で貫徹され、男の理屈での解釈を拒む、 ヒリヒリとした皮膚感覚で迫る確固たる世界を確立している (本作の脚本と製作としてクレジットされている小林佐智子は周知のとおり原の愛妻だ)。それに噛みついていく原の演出―― 計算云々を横にうっちゃった、脚本と演出の真剣勝負が映画を引っ張っていく。スタッフ、 キャストが濃密なセッションを繰り広げた末に完成したであろう本作は――男と女の映画?――いや、やはり男の映画だ。 女が好きで欲しくて知りたくてたまらない男の映画だ。〝知華〟の息子が彷徨する、詩情あふれるエピローグに託された、原の「なぜなら、 私も息子だからです」という言葉は、あまりに当たり前のことで呆気に取られるが、それを〝男の宿命〟と読み取ることもできるだろう。

 この女のことを知りたい――オブラートにくるんだ口説き文句を突き抜ける、切実で虚しい願いだ。ただ必死にカメラは〝知華〟を追う。 そこに〝知華〟という女との距離を測り損ねた男たちが何人か紛れ込む。〝知華〟が存在した記憶は観る者の中に沈殿していくが、観る者が 〝知華〟という女を理解できるかというと、答えは恐らくNOだ。そのもどかしさが、観る者の、特に男の内面をかき乱し、 女にからんだのっぴきならない事態の味わいを蘇生させ、痛みを胸に残す。

 恐らく、この映画は生き残る。叶うことない願いに正面きって挑んだこの映画は、今後も誰かに必要とされ、 目撃した者に重い後味を残していくだろう。私自身、もう少し歳を重ねてから、この映画を再見したい。その時には、私にも少しは〝知華〟 が理解できるだろうか? 相変わらず、愚かな男たちに私を重ねてしまうだけだろうか?

(2005.1.17)

参考資料:
またの日の知華 公式ホームページ
『CINEMA SQUARE MAGAZINE No.189 またの日の知華』
FUN! FUN! MOVIE 原一男インタヴュー

2005/04/30/09:08 | トラックバック (0)
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