今月の注目作
(2004 / 日本 / 原 一男)
愛しているといってくれ

膳場 岳人

 デビュー作の『さようならCP』('74)以来、 手がけた監督作品のすべてが破格の"衝撃作"に仕上がってしまうという稀有なドキュメンタリスト・原一男が、 初めて純然たるフィクションを撮った。原監督は被写体(私生活をさらけ出す脳性麻痺の患者、奔放な生き方を貫く元恋人、 神軍平等兵を自称する活動家、半生を嘘で塗り固めてきた小説家、等)と、 彼らにキャメラを向ける自分自身との"関係性"にこだわってきた人である。そこに「社会問題をリポートする」とか、「客観的な事実」 を誠実に伝えようといった姿勢は希薄だ。その関心事はエキセントリックな「あなた」が、キャメラを抱えた「私」とぶつかり合うことで、 映画にどのような磁場を生じさせるのか、という一点に絞られている。「あなた」と「私」がキャメラを通じて取っ組み合うとき、 たとえばある人物は障害のために屈曲した裸身を晒して路上を横断するし、ある人物は性行為や自宅出産の赤裸々な様子を撮影させる。また、 ある人物は殺人未遂の罪まで犯し、その当然の帰結として収監されることになる。このように、被写体との特異な「共犯関係」によって、 独自の映画世界を作り上げてきた原監督が、ゼロから虚構の物語を組み立てて(とはいうものの、 本作は実際に起きた事件に材をとっているという)、ベテランの演技陣を擁した一般的な劇映画に挑戦する――。それは、 頼りがいのある共犯者を失った「私」の正体を暴露し、真情を吐露する、注目度の高い独演会になるはずである。

 結論から言うと、「70年代を総括する」という監督の宣言とともに制作された『またの日の知華』は、 夜の巷にいくらでも転がっているような物語、すなわち"哀れな女"の末路を描いて、予想外に滑らかな手触りの女性映画に仕上がっていた。

 第一章で描かれる少女時代の知華は、蒼い肉体を晴れた日の浜辺で溌剌と乱舞させる。その純真無垢な生命体は、 すぐに体操競技の試合における演技の失敗、という事故で、決定的な翳りを帯びることになる。 それによって作品全体に重くたちこめることになる、「挫折したその後」というやるせないトーン。これを 「70年代に青春を送った者の典型的な心象風景」などと思わせがちな罠が、映画のいたるところに仕掛けられている。 60年代~70年代の世相を伝えるニュース映像や、「シラケ世代」などという流行語を登場させ、ある重要な場面で「革命」 という言葉すら知華に吐かせている。しかし、「時代そのものを主人公にした」かのようなこうした仕掛けを、 果たして額面どおりに受け入れてよいのかどうか。

 貞淑とは言いがたい知華の人生には、情痴の沙汰が因業のようにまとわりつく。それは、三条泰子が蛇のような妖気で演じる母親の、 「淫乱の血」のせいかもしれないということが示唆される。そのせいかどうか、第一章で吉本多香美が演じた若々しい知華は、 従兄弟の田中実が実の兄ではないかという想像に酔うことで、全身の血を燃え上がらせる。否、彼が実の兄ではないかという屈折した願望ゆえに、 結婚して子供までこさえるのだ。だが、彼と実際に家族を形成したとたん、男は肺を病んで療養地へ行き、表舞台から消え去ることになる。 やがて職場の体育教師と不倫関係を結んだ知華(第二章・渡辺真起子。思いつめたような面構えと、生々しい存在感が素晴らしい)は職を辞し、 水商売にも失敗、借金取りに追われながら、どことも知れぬ夜の町を転々とする生活を送る。知華のかつての教え子であり、 同性愛者の姉に思いを寄せる"動物解放戦線"という怪しげな団体のメンバーである小谷嘉一は、偶然知華(第三章・金久美子)と再会し、 彼女を姉代わりのように慕っている。知華は彼が実姉へ向けた屈折した愛を知りながら、否、それゆえに彼と南国への逃避行を企てる。つまり、 「家族」あるいは「肉親」という響きに対する知華の思いは、いつも奇妙な屈折を見せているのである。第四章に登場する無頼者の夏八木勲は、 知華(桃井かおり)に「女は名前で呼ぶもんだ」と言って、「家」を象徴する「姓」をあっさり無意味化してしまう。彼女は彼から単なる「知華」 と認められることで、「淫乱の血」や近代的な「家」の桎梏から解放されるのである。そのために、彼女は身の危険を感じながらも、 むざむざ彼の故郷への旅に付き合う気になったのではないか。それが死出の旅になることも知らずに。

 こうした描写とそれへの解釈が、70年代に澎湃した女性解放運動と何らかの連係を見せているのかどうかは不明だ。そもそも知華が「血」や 「家」の呪縛にひどく頭を悩ませている、といった描写があるわけではないからだ。 彼女は自分の行いに対するすべての責任を負ってシンプルに生きているのであり、 教師という社会的地位を失うことで個人の尊厳まで失ったわけではない。借金取りに追われる知華を演じた故・ 金久美子の凛々しくも柔和な笑みは、そのきっぱりとした自覚を十二分に体現している。ならば、彼女が辿った "転落の軌跡"と称されかねない人生を描くことで、監督は何を言おうとしていたのだろうか。これまでの映画作りで、 強烈な被写体に振り回されてきた監督は、なぜこのような、陳腐ですらある小さな物語にこだわったのだろうか。

 問いを重ねながらスクリーンに見入るうち、映画はいつしか佳境に差し掛かっている。かつて「幸子」 という女を刺殺した過去のある夏八木勲は、これが俺の性(さが)だとでも言うように、自分の生まれ故郷にふらふらついてきた知華を刺す。 崩れ落ちた知華を見下ろす、哀れむような慈しむような表情。初老の男が見せる万感こもったその顔に、知華というキャラクターを作り出し、 自ら葬ろうとする、原監督の顔がだぶって見えはしないだろうか。これに続く、夏八木に手をつながれ、 水の中を知華が曳航されてゆくハイスピード撮影された俯瞰ショットの息を飲むような美しさ――。その周到に準備された虚構の美はしかし、 一人の女を激情のままに愛し、一方的に美化してしまう男の勝手な思い込みがなしたものに過ぎない。 水商売の世界における男女のコミュニケーションが、しばしばそのようにして男の哀れを浮き彫りにするように。 映画にはしばしば神社や寺での祭祀の光景を挿入されるが、それは身を持ち崩した多情な女を世俗の淵から救済し、 神話世界の住人へと聖化してゆくイニシエーションを彩る上で必要なアイテムだったのだろう。だが、女性を聖化へいたらせる直情的な観念は、 別れた恋人への愛と未練を赤裸々に綴った、監督の若き日の傑作『極私的エロス~恋歌1974』('74) に漲るパッションとひどく似通ってはいないだろうか。愛している、だからあんたも愛しているといってくれという、 報われることのない男の叫びが、三十年を経て初めて手がけられたフィクションに不変の旋律として姿を現したとき、筆者はやはり、 静かな感動を覚えざるをえなかった。

(2005.1.30)

2005/05/01/13:00 | トラックバック (0)
膳場岳人 ,今月の注目作 ,またの日の知華
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