この映画は知華という女の一生をそのときどきによって知華の演じ手を代えた映画だ。
「それぞれの男たちによって知華の見え方は変わるんじゃないか」というような監督の言葉がチラシにあった。
まず演じ手が違うということが自分としては見ていて単純に楽しかった。
そりゃ一人の人間を四人が演じるのだから見てるだけでも興味は尽きない。一見奔放に生きているように見えながら、
真摯にあるべき自分の姿を探しつづける知華という女をそれぞれの女優さんが魅力的に演じていたと思う。
どんな人にでもそれぞれの人生があり、その時がある。
だからその時いっしょにいた人によってそのときのその人の見え方が違うのは当り前と言えば当り前だが、
こうしてモロに違う役者さんに演じさせる手法は面白かった。
「最初の男はねぇ、ピアニストよ、ピアニスト。ゲー大出てたの。で次が新聞記者になった人でしょ。
その人はホントどこまでも追っかけて来たんだから。で、結局パパよ。なんでって気が狂いそうになってるんだもん。可愛そうだからよ。
それに一番ケチじゃなかったし、いっしょに石投げてたし・・・」との言葉は筆者が幼稚園くらいのころに散々聞かされたおそらくウソ90%
の母親の恋愛自慢話だ。
今でこそヨーダのような容姿の母親だが、昔は歩けば確実に男が振り返るくらいの美人であったと豪語している。が、
絶対に小学生以上のときの写真を見せてくれようとはしない。
仮にウチのおばちゃんの話が70%
くらいホントだったらやっぱりそれぞれの男にはそれぞれの形で映っていたんだろうなあとこの映画を観て思ってしまった。
そして自分はそのときのオバちゃんを全然知らないし、永遠に知ることは不可能だ。恋人や女房だってそうだ。
そう考えるととてつもなくどーしよーもねーことなんだよなーとは分かりながらも、知りたがりの筆者としては、
なんだかそれはちょっと悲しいような気もするのだ。(別にお袋の昔を知りたい訳じゃ・・・。やっぱ知りたいか。どれだけウソついてるか)
自分にとってはあのとき接していた人だけがその人なのであってあとはその人でない・・・。絶対にその人を知ることは出来ない。
でもその人にとってはその人でしかありえない。なんだかこんがらがってしまうが、四人の女優に演じさせたことがそんな感想を持たせたのだ。
四人の女優さんはどのような気持ちでそれぞれの知華を演じたのだろう。そのときだけの知華を考えたのだろうか。
それともシナリオはあるのだから、別のときの知華も踏まえて自分の知華を造形したのだろうか。
筆者にはそれぞれがそのときだけの知華を演じたように見えたのだ(そんなことあり得ないのかも知れないけど)。
要は四人とも違う人と言ってもいいくらいに思えた。
でも、まったく違う人を配役しているのだから、そう見えたって別にいいのだろう。言葉は変だが見ていて妙にスリリングな映画だった。
時と相手の男が変わっても、四人の知華の生きる姿勢だけは変わっていない。なぜかそのことに少しホッとした。
(2005.1.27)
主なキャスト / スタッフ
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