体操選手として将来を嘱望されていたが、出場した大会で平均台の着地に失敗したことを契機に、体操の道を断念した知華。
本作はそんな知華がその後歩むこととなる流転の生涯を描いた作品で、「極私的エロス・1974」('74)「ゆきゆきて、神軍」('87)
「全身小説家」('94)など、ドキュメンタリー作家としてカルト的人気を誇る原一男が、初めて挑んだ劇映画である。
女の不遇の生涯を通じて、人間の営為につきまとう悲しみや愚かさを描いた作品と言えば、筆者などは真っ先にモーパッサンの「女の一生」
を思い出すが、女の死までを描き切っていることを除けば、本作はまさしく「70年代版・女の一生」と呼んで差し支えないだろう。
本作の最大の特色は、吉本多香美、渡辺真起子、金久美子、
桃井かおりという容姿も雰囲気も全く異なる四人が各時代の主人公知華を演じ分けていることである。
この余りにもかけ離れたキャスティングゆえに、同一人物に見えないという印象を抱く向きもあるかもしれないが、
このキャスティングは意外性を狙った「単なる奇想」ではない。「男たちから見たヒロインは、それぞれ違って見えるはず」
という原のこの発想は、すなわち、ユングの「ペルソナ」をキャスティングという形で映像化してみせたものであり、
一人の人間の持つ多面性を描く上で、実に画期的な試みであると言える。本作の脚本が並外れているのは、
一見すると独立して各時代の知華を点描しているだけのように見えて、その実、
知華という人間の根幹を成す基本アイデンティティーが各章を貫いている点であろう。では、それは一体何か。その鍵は、
各章で挿入されるニュースフィルムに隠されている。
「安保闘争」「東大安田講堂の攻防」「浅間山荘事件」「三菱重工爆破事件」という昭和史を彩る各ニュースフィルムは、
各章の要所で挿入されているとはいえ、その扱いは余りにも等閑であり、これだけで昭和史を云々しているとするのは流石に無理があるだろう。
原自身もそのことは自覚しているに違いない。これらのフィルムが本作の時代背景を明示する為に挿入されているのは言うまでもないが、
取り上げられている事件を眺めていくと、これらが皆「若さの暴発」によって引き起こされていることに気付く。「若さの暴発」とは、
言い換えれば「未来に対する絶対的な信頼表明」である。その根底にはどのような形であれ「未来に対する希望」が常に輝いているが、
翻って同時代を生きていた知華はどうだったのだろうか。オリンピックの体操選手という輝かしい未来への道を断念した知華は、
彼らとは対極的な存在であったと言えよう。つまり、本作には未来に対する対極的な二つの意識が絶えず画面上でせめぎ合っており、
それが知華を思わぬ方向へと押しやる原動力となっているのである。そうした観点で見渡すと、それぞれが独立しているように見えた各章からは、
未来を失っているがゆえに他者(男)の中に未来を見出し、
彼らに自らを託すことで失われた未来を取り戻そうと足掻き続けている知華の姿が透けて見えてくるのである。
この構図は、第一章から第三章にかけての知華の行動を通して考えるともっとはっきりする。第一章では、体操選手の道を諦めた知華が、
良雄と結婚、出産を通じて未来を掴んだかに見える。だが、良雄の結核による長期入院という離別によって、知華は再び未来を奪われる。
次に第二章は、知華が同僚の和也と不倫関係に陥っていくが、嘗ては未来そのものであった夫も、
結核によって健康を損なった今となっては未来を失ったに等しい。知華は自身の投影のような夫ではなく、年下の男の秘めた「未来」
にどうしても惹かれてしまう。第三章になると、前回輝かしい「未来」を体現していたはずの和也は知華のヒモ同然のみすぼらしく、
情けない男に様変わりしており、夫同様「未来を断たれた男」に転落している。そんな知華の元に現れるのが、嘗ての教え子である幸次だ。
ここでも知華が惹かれるのは、動物解放戦線なるゲリラグループに属する幸次の中にある「未来に対する無邪気な信頼」と言っていい。
こうして知華は未来を求めて、ひたすら未来を求めて突き進んでいく。
その一方で、時間の流れによる関係性の推移についても、脚本の小林佐智子は目配りを怠っていない。知華の行動パターンを揃えることで、
時に妹だったり、妻だったり、恋人だったり、姉だったり、母だったりと、それぞれの関係性における知華の「役割(=ペルソナ)」
を鮮やかに描き出してみせるのである。特に秀逸なのは、役割の変化を通じて知華の心象を浮かび上がらせていることだろう。
中でも第二章で和也に恋人がいたことが発覚し、知華が強がりながら身を引こうとするシーンと、
第三章のラストで迎えに来た姉と自分を選びかねて躊躇する幸次を、
知華が寂しさを堪えつつ静かに送り出すシーンとは完璧な対比をなしているが、前者のシーンがあるだけに、
この三章幕切れで金久美子が見せる慈母のような眼差しと諦念を湛えた儚げな微笑には、言いようのない深みを感じずにはいられない。
求めるものが変わらなくとも、年をとることで否応なく変えられてしまうものがあることが静かに伝わってきて、
どうしようもない切なさがこみあげてくるのだ。
最後に第四章になると、知華の前に瀬川という男が現れるが、この男はもはや嘗ての男達のように未来を宿してはいない。
他者の未来に自らを託すことができなくなって、初めて知華は関係性の呪縛から解き放たれるのである。それは同時に「役割」からも解放され、
漸く一個の独立した「女」になったとも言えるだろう。しかし、ある意味では知華の悲劇はこの解放にこそ胚胎されるのだ。知華は流転の果てに、
漸く自立的な生を手に入れたかに見えるが、ここに至っては個として自立して生きることに、もはや耐えられなかったのではあるまいか。
だからこそ、知華は息子(男)との暮らしを夢見て、自身に残された最後の寄る辺である「母親」
という役割に縋るようにして彼の元に連絡をするのである。しかし、その息子からも拒絶され、
唯一正統的に残されていたはずの未来をも失った知華は、自身の命運を受容せざるを得ない立場へと追いやられ、そして殺されるのである。
ともすると本作は、自堕落に流されるまま転落していく知華という女を描いているだけにしか見えないかもしれない。しかし、
人生に岐路に立たされた時、正しいか否かはではなく、
ともかく正しいと信じて行われた選択とその結果だけを切り抜くようにして炙り出された知華の生と死には、
各年代特有の生々しいまでの女の情念と共に、成長し続ける未来を無邪気に信じられた高度経済成長期というあの時代の空気感が、
確かに刻印されている気がしてならないのだ。更にはその先に待つ、この女の子供である団塊ジュニアが抱え込むことになる、
未来に対する空虚感をもまた。
本作は、細部に到るまで極めて緻密な計算によって練り上げられた脚本に基づいているが、
それでも本作が劇映画として成功することはないだろう。同じドキュメンタリー畑出身の是枝が劇映画的手法を意図的に排除したがゆえに、彼の
「誰も知らない」('04)が傑作になり得たのとは対照的に、本作に見られる原の素朴なまでの役者の「演技」に対する信頼が、
本作を酷くいびつなものにしているからである。この演出につきまとう違和感が、しばしば作品と鑑賞者を決定的に引き裂き、
劇的カタルシスを拒む結果となっているのが悔やまれてならない。
(2005.1.27)
主なキャスト / スタッフ
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