今週の一本
(2007 / アメリカ / ラホス・コルタイ)
悲しみを呑み込んで、女は母になる

仙道 勇人

いつか眠りにつく前に1(ネタバレの可能性あり) 死の床にある老母が、うわごとで何度も口にする「ハリス」という謎の男の名前。そして「ハリスと私がバディを殺した……」という思いがけない言葉に戸惑いを隠せない二人の娘。次女は知られざる母親の素顔を知りたい一心で繰り返し母親に問いかけるも、意識の混濁する母親の返事は要領を得ない。一方、そっと最後を迎えさせたいと願う長女は、母親の過去を詮索しようとする次女の行動が気にくわない。
  そんな二人の娘に見守られながら、老母の意識は自らが「最初の過ち」と告白した、ハリスと出会った当時――24歳だった彼女が、親友ライラの結婚式でブライズメイドを務めるために、ロードアイランドの海辺の町を訪ねた時の記憶を彷徨っていた。それは老母が心の奥深くに封印していた、若き日の狂おしい恋の熱情とその代償として支払うこととなった大きすぎる悲劇の記憶だった……。

 老母のアンを演じるヴァネッサ・レッドグレイヴ、その実の娘であるナターシャ・リチャードソンがアンの長女役を演じ、アンの親友ライラの現在と過去をメリル・ストリープと彼女の実の娘であるメイミー・ガマーが演じるという母娘キャスティングだけでなく、徹頭徹尾女性の視点で「女の生き様」を描いた「女性映画」としても注目されている本作だが、女の胸に秘められた過去の追憶を甘く苦く描いて「これが女の生き方なのよ」式に情緒に訴えるだけの作品とは少し違う。
いつか眠りにつく前に2  これは脚本も手がけている原作者・スーザン・マイノットの気質によるものと思われるが、本作の特徴は構成と人物構図にかなり綿密な計算が行われている点にある。率直に言って、この構成に対する「作家的なこだわり」は、映画的に余り奏功しているとは思えないのだが、それでも作品に重厚さを与えることに繋がったのは事実だろう。この計算によって、物語の核心部をもっと鮮明に浮かび上がらせることができていたら、或いは長く人々の記憶に留まる女性映画になったのかもしれない。

 本作は、ハリスと出会ったアンが犯した「過ち」を描いた過去編と、老いたアンを看取ろうとしている娘達を描いた現代編、二つのパートが並行して交互に描かれていく。ここで注目すべきなのは、過去編と現代編双方に対立する二つ女性像が組み込まれていることである。
  過去編では、アン(クレア・デインズ)は、歌手になる夢を抱いて場末のバーで歌っている開放的かつ自立した女性として描かれるのに対して、親友のライラは自分の気持ちより家同士の関係性や体面といった現実面を重視する保守的で受動的な女性として描かれている。この人物構図は、現代編においてはアンの娘達に引き継がれており、定職もなく男も取っ替え引っ替えしている次女ニナ(トニ・コレット)が、若い日のアンの属性をもった現代女性として描かれているのに対して、早くに結婚して子供を産んだ主婦として描かれている長女コンスタンスは、「結婚と家(族)の形成」という点で過去編のライラ的女性の現代版として意図されていると見るべきだろう。
  こうして本作は、過去と現在双方で女達が直面し続けている問題――ジェンダーの問題を、世代間ごとに明らかにしようとする。例えば、ライラのように意に染まぬ結婚(自発的か強要かは問わず)という悲劇をもたらしてきた一方、そうした因習や古い世代の価値観に縛られないはずのアンもまた、ジェンダーから自由であるがゆえの悲劇を生み出し、自らの人生を大きく狂わしてしまったように。
いつか眠りにつく前に3  同様に現代編に目を向ければ、ジェンダーから解放された生活を送る次女ニナは、浮き草のような自分の生き方に少しも自信が持てない為に、恋人から差し出されている愛も信じ切ることが出来ず、人生を彷徨い続ける境遇に置かれている。一方の長女コンスタンスはどうかと言えば、実は彼女だけが主婦という唯一幸せな、まさに勝ち組といった境遇を勝ち得ている。だが、それはフェミニズムからしばしば攻撃されるタイプの幸せであることから、ことあるごとに諍いが絶えないこの姉妹の関係性を通して、現代の女同士の間に横たわる価値観の歪みと対立を仄めかしてもいるのだろう。

 世代と時代を超えて全ての女性が抱える問題の本質をジェンダーへと繋げていく感のある本作だが、驚かされたのはそこからの脱却方法としてスーザン・マイノットが提示したのが「妊娠」であった点である。
  恋人とも上手くいっていない様子だった次女ニナの妊娠が告白されることで、本作はそれまでの「女性」という視点から「母」という視点に明らかに移行していくのだ。余り仲が良くなさそうだった姉妹(これは恐らく異父姉妹という設定事情もあろう)も、この事態が発覚するに及んで自然と和解する。まるで「母」業の先輩としてそうするのが当然であるかのように、長女コンスタンスは妹を無条件で労り肯定するのである。
  この和解と共感の流れは、年老いたライラが病床のアンを見舞い、アンがライラを裏切り傷つけた過去の事件によって生じていたであろう、長年のわだかまりが解消されるに至ってクライマックスを迎える。ライラは結婚に迷う自身が嘗てアンにそうされたように、ベッドに横たわるアンを抱きしめながら束の間語り合う。その姿は親友同士の語らいであるばかりでなく、戦友同士の語らいのようですらある。かくしてアンは、ライラの「母親として二人の娘を立派に育て上げた」という言葉を受ける形で、「人生に過ちなどない」という確信を得るに至るのである。

いつか眠りにつく前に4 それは「女」としての記憶ではなく、寧ろ「母」としての記憶に根ざしたものなのだろう。何より「人生に過ちなどない」というアンの台詞に、筆者は真っ先にキリスト教の「全てが赦されている」という言葉を想起せずにはいられなかった。言うまでもなくキリスト教の「赦し」は、キリストの犠牲によって贖われているわけだが、アンの言う「(女の人生に)過ちがない」という言葉は、「母」に強いられる犠牲によって贖われている、もっと言えば「女」として得た経験は、全て「母」という役目を全うするためにこそある――そうスーザン・マイノットは言いたいのではなかろうか。

 終盤近くに、若いアンが子供たちの世話に手を焼き、非協力的な夫に途方に暮れながら子供たちに歌を聴かせる印象的なシークエンスが挿入されているが、それは歌手という夢を犠牲にし、自身の欲望を封じ込んでなお「母」であり続けたアンの心労と悲しみと、ほんの少しの悦びを偲ばせるものだ。
  その犠牲の大きさに挫折し、母親であることを放棄してしまう者が少なくないことを思えば、やはり一人でも子を育て上げた母親という存在の偉大さを思わずにはいられない――などと、本作に「女性性」よりも「母性」の方をより強く見出してしまったのは、やはり筆者が男だからだろうか。

(2008.2.27)

いつか眠りにつく前に 2007年 アメリカ
監督:ラホス・コルタイ 脚本:マイケル・カニンガム,スーザン・マイノット
撮影:ギュラ・パドス 美術:キャロライン・ハナニア
出演:クレア・デインズ,ヴァネッサ・レッドグレイヴ,メリル・ストリープ,グレン・クローズ,トニ・コレット,
ナターシャ・リチャードソン,パトリック・ウィルソン,ヒュー・ダンシー,メイミー・ガマー (amazon検索)
(c) 2007 Focus Features. All Rights Reserved.
公式

2月23日(土)より日比谷みゆき座他全国ロードショー

いつか眠りにつく前に (単行本)
いつか眠りにつく前に
河出書房新社
スーザン・マイノット (著)
森田義信 (翻訳)
発売日:2008-02-21
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2008/02/28/00:20 | トラックバック (0)
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