父と子、男同士の友情、というテーマも出てくるが、軸になっているのは、隣近所で幼なじみとして育った、
下級武士の息子である文四郎と、貧しい家の娘ふくの、恋愛未然のというか、成就することのない想いである。(話の展開は思い切り端折るが)
ラスト、下級武士として平凡に生き、今は二人の子持ちである文四郎と、殿の妾としての半生を過ごし、跡取り息子を生んだが、
自らは尼になる決意をしたふくが再会、対面するシーンで、ふくが言う。「文四郎さまのお子が私の子で、私の子が文四郎様のお子であるような、
そのような道はなかったのでしょうか(大意)」それに答えて文四郎。「それがかなわなかったことが、私の生涯の悔いでございます(大意)」
その両者の万感のセリフに筆者は感じ入った。
人はいくつもの道を生きている、というと、すぐに気がつくと思うけれど、それは矛盾していて、通常、道(というとすごく臭いけど)
というのはその都度の大小選択の結果が連なりとして現われてきたところのもので、現実に辿るのは一通りしかありえないし、
よもや自分が二人三人といるわけではない(いたっていいと思うが)。選択するということは、
その他の可能性を切り捨てるということでもあるのだけど、では、それでいて尚、いくつもの道を生きているとはどういうことか。というか、
他の可能性は本当に切り捨てられたのか。
上記したシーンも個人的にはそうだったのだが、映画がふとした瞬間に、かつて自分が経験した分岐点と重なるようなシーンを描き出すとき、
我々は目では相変わらず映画を追いつつも、頭の中では当時自分の経験したその記憶が喚起されて来て、
映画と同時進行にそれを辿り直してしまうというような事態が起きることがある。
そのとき、我々はただ単にノスタルジーに浸っているのではなくて、その記憶を様々な角度から検証して、補強・意味付けしたり
(あるいは捻じ曲げ捏造するということも往々にしてあるが)、選ばなかった、
あるいは選ぶことのかなわなかった選択肢及びその先にあるものに、改めて想像力を働かせたりすることになる。
この記憶を再生したり想像したりということが大事で、それはもちろん後悔とか現実逃避ということでは全然なくて、
では何なのかと言われてしまうと困ってしまうんだけど、何か生というものを知ることに繋がっていくような気がする。……と、
どうも切り出し方を間違えたらしく詰まってしまって、えーと、
選択されなかった可能性に何が宿っているかみたいなことがとりあえず言いたかったのだが(もちろん分かってるわけでなく、
何かあるんじゃないのという程度のところで言いたかったということなのだが)、とはいえ書き直すというのも億劫なので、
まぁいいかとこのまま進めていくと、えーと、いくつものありえたかもしれない道を想像するという過程を経て、
今こうして生きているというのがどういうことか問うという形に還元されてくるのではないかと思う、というわけだ。
現実に過ごす生というのは、直線ではなくてもグネグネと逡巡しまくる道としてイメージされるかもしれないが、頭の中で
(というか思いの中で)捉えている生というのは、節々で枝分かれしていく木のようなイメージの方が近いのかもしれない。しかし、
頭の中や思いの中で(「思い」には「想い」も大雑把に含んで)想像し直される枝葉というのは、今進んでいる現実とリアルに地続き(幹続き?)
であるとは言えない気もするので、ちょっと大雑把なイメージなのだけれど。というより、過去というやつ自体が、
ただ局面局面として思い起こされるだけで、生まれてから一日も絶えることなく続いてきたものであるという前提は了解していても、
実はあまり実感していないというか、その全てを辿り直せるわけではないというか、それこそ映画的に、シーンとシーンが、
つまり語るのに都合のいい部分だけが、繋がっている(というか並べられている)ように自分の中でなんとなく考えられてしまっているので、
頭の中や思いの中ということになれば、さらに言わずもがなということかもしれない。
どうにもうまく言えないので要点だけ言うと、時間が経っても思いはずっと自分の中で生きていて、
現実がどう変わっていっても思いのまま保存されて、思いは現実に所属するものである自分から折りを見て顧みられて
(そのきっかけを作るのが映画をはじめとした芸術作品であったりする)、彼自身(彼女自身)の生を彩どるというか、
それが全くの無為ではないことを保証してくれるというか、別の言い方で言ってみると、彼(彼女)は、
裸の身一つで非情な現実に放り出されてあてもなくさまよわなければならないのではなくて、彼(彼女)には、本人が自覚していなくても、
いつだっていくつもの思いが備わっていて、その自分の中に思いがあること自体が、彼自身(彼女自身)の生を支えてくれる、
というようなことだ。
というよりも、実際には一通りにしか現実が実現しないから、そこには幾多の局面ごとに余りあるだけの思いが生まれて、彼(彼女)
はそれが自分に根づいていることをよく承知しているが為に蔑ろにするということが本質的には出来ないというか、
いつまでもそれをリアルなものとして自分の中に保存しておくことが出来る、というよりも本人の意図に関わらず出来てしまうのであり、
そのことが生を幾重幾方向にも開いていく萌芽であると可能性づけ、生を決して貧しいものにはしえないのではないか。だから、
人はいくつもの道を生きているというか、人は幾重にも生きている、ということかもしれない。
それで、また別の話なんだけれど、小見出しの「20年、人を想い続けたことはありますか」という言葉は、
映画のコピーとして使われているものをそのまま遣わせていただいたものなのだが、20年というのは映画のストーリーに合わせた言い方で、
本当は20年でも50年でも思いは続くものなのではないか。この映画のイメージソングを担当している一青窈の、イメージソングではない、
別のロングセラー・シングルに照らし合わせていえば、ひょっとすると100年だって続くのではないか。それ以上にも続くのではないか、
などということを映画を見ながら考えたのだった。
ついでに。ところで、物語の途中、藩士である文四郎の父は、藩内での権力争いで敗れた側についていた(つかされていた)がために、
反逆者の汚名をきせられて切腹を命じられる。そのために、文四郎は母と共に貧乏長屋に追いやられ、世間からも冷たい目を向けられ、
罪人の子として一時期を辛く過ごすことになる。この切腹というものが筆者には理解できない。外国人が切腹・
ハラキリを理解できないとよく言うのと同じ程度かどうか分からないが、とにかく理解できない。
今では、フィクションの中でしか切腹という行為を見かけることはないけれど、その中での切腹の扱いに、
権力者が理不尽に下級武士に言い渡すというものがある(戦で負けたときなどその場で自決的に切腹することもあるが)。
頭に来たというだけですぐ「切腹じゃ、切腹!」などと言い出す奴までいる(よくそんなバカの家来でいる気になるな)。そして、下級武士は
「ちょっと冗談でしょ」などと反論する余地もなく、理不尽をよく承知しているにもかかわらず、本当に切腹してしまうのである。
何でだろうと思う。
切腹を申し渡されたが最後、切腹しても死ぬし、切腹しなくても死ぬ(多分、殺される)。
ギリギリで免除されるという展開の映画か何かを見たことがあるような気もするが、時代劇というものには、どうも「助けよう」あるいは
「逃げよう」という発想自体すでにズレているとさえ感じさせるような雰囲気がある。
どう考えてもおかしいが飲み込まなきゃならないものとして切腹があるという印象を受ける。
しかも、それをする当事者にしてみれば、申し渡されてから実行するまでに相応にタイムラグがあるために、
かなりアンビバレントな思いを強いられる羽目になるだろう。切腹を正当化する武士社会の理屈もあるのだろうが、その理屈と、ただ
「死ぬなんてゴメンだ」と自然に思われてくる自分の内なる声との矛盾を突き付けられて、一体どう自分を納得させるのだろうか。というか、
ある社会を成り立たせている論理があって、その論理ゆえに自分の生命が危機に際してもそこから出られないというのは、
なんだかハマリ過ぎなんじゃないだろうか。というか、態度として果たして賢明なんだろうか。そりゃあ、
社会の論理は個人の生命を隅々までは顧みないものかもしれないが、切腹という儀礼は積極的に個人の生命を奪うものであるのだ。
しかし、最終的に切腹をするというところから逆算すれば、切腹というのは自分で自分の腹を切るわけで、それは生半可に出来るわけもなく
(深爪程度なら逆に快感かもしれないが)、相当の覚悟が必要なのは言うまでもない。「そもそもこの切腹命令自体がかなりおかしい」とか
「武士道なんてただの建前じゃないですか」とか、そんなことが頭をよぎっていたら出来ない気がする。
本当にどうやって自分を納得させるんだろう。藩の武士がみんな見てるから仕方なくやるんだろうか。
というか、こんなことを言っていたら、いつ切腹がはじまって、いつ終わったのか、知りたくなってきた。だいたいどうしてこんな刑罰・
儀礼が続いたのだろうか。権力を行使する側にとって便利に使えるから続いたのだろうか。
それともまず先に切腹というものがとりあえず立ち上がってしまって、「武士は死ぬことを恐れたりしない、
そんな恐怖はとっくの昔に乗り越えている」などと強がってみたものの、今更「本当は怖い、死にたくない」などと言い出せなくて、
撤回できないままだらだらと続いてしまったのだろうか(武士がカッコつけるためにあるというのは一理ある。余談だが、逆に、
イーストウッドは『ミリオンダラー・ベイビー』の中で「カッコつけるために」人を殺した。筆者は「さすがアメリカ人」と思った)。
その儀礼の終息期にはもうあちこちの武士から「最初からバカバカしいと思ってたんだよね、これ」とか声が聞こえてきそうで、そしたら
「切腹で死んだ奴等は何なんだ」ということになってしまうが、まぁそういうのはどの世でもよくあることなのかもしれない。というか、
武士はみんな黙して語らなかったかもしれない。
パワーゲームにおいて、例えば煩わしい競争相手を暗殺・仁義なく斬り捨ててしまうならともかく、
罠としてひたすら武士道とかお家という体面を装って準備される切腹というのはどうなんだろう。それは純粋に武士道ということとは関わりなく、
単に政治の道具として使われているだけの話で、そういう社会はかなり歪んでいると思う。別に、歪んでるのは結構なことだが、一方で
「ファミリーなんてちゃんちゃらおかしいぜ」というマフィア映画は見たことあるのに、「武士道なんてバッカみたい」
という時代劇はお目にかかったことがない。みんなどこかで武士という存在や武士道という概念を疑う余地のない拠り所にしている、気がする。
というか例によって例のごとく、時代劇をほとんど見ていないので、小さな呟きとして捉えていただきたいのだが。
しかし、切腹という行為を支える理由がただ「それがしは武士だから」「武士とはそういうものだから」というのなら、
そこには憂うべき停滞があるし、自分が志す思想(?)に対して、姿勢が紋切り型すぎる気がする。逆に「なんか違うんだよな」と思いつつも、
結局皆が見てるし体面上やらざるを得なくて切腹するというなら、単に個人として体制に屈してるだけだ。それに、切腹して死んでしまっては、
武士道という思想を発展させようにも出来なくなってしまう。
いずれにしろ、切腹がその武士に降りかかった時点で、彼は(武士に彼女はいないはずだが。でも、いたっていい)武士とは何か、
武士道とは何かを、もう問えない。もし、彼が真剣に武士の道を志していたなら、
尚更パワーゲームの一環として切腹で死ぬなんて出来るはずがない。彼には探求すべき武士道がある。それとも、
主君に絶対的に服従するというのは、どうやっても譲れないのか。それがどんな主君であってもか。その切腹が、
つまるところ下らない利権争いのしわ寄せに過ぎなくても、切腹できるのか。というか、死ねるのか。確かに、主君なくして、
武士も侍もありえないのだろうが。どうも釈然としない。腹を切る前に「やってられっか」の一言ぐらいほしい。
切腹しないで周りの武士に斬りかかって、返り討ちにあったりしてほしい。
「いや、武士道が何かなんて問う必要なんてなくて、それはすでに完成されている、武士はただ武士道を全うすればいい」
ともし言ってしまえば、「武士道」という言葉自体が怪しいものに思われて来はしないか。それとも、
武士道というのは宗教に近いものなんだろうか。あるいは、そんなに大袈裟なものではなく、ただ単に殿に仕えるにあたっての、
戦がよくある時代における戦士としての、ルールブックという程度のことなんだろうか。
グダグダ言ってみても、筆者は江戸時代も武士道もからきし知らないし、あまり真面目な興味も沸かないので、これ以上は止めにするが、
何が言いたかったかというと、フィクションに切腹を持ち込むことの問題について言いたかったわけで、
上記のように切腹に際する諸々のことが釈然としないと、どうもリアリティとして徹底してないような気配がしてきてしまうのだ。だから、
切腹は一つの装置に過ぎなくて、フィクションフィクションしたフィクションとしてしか使えない気がする、逆に言えば、
それについてのリアリティをよく検討しないで、単に装置として使ってしまうと、フィクションめいたフィクションにしかならない、
ということだ。
ちなみに、映画ではこの父の切腹のシークエンスで父と子の関係がクローズアップされる。また、武士社会が描かれても、
そこに出てくる人々は、我々と変わらない普通の人々として登場する。
ついでに言ったことのが長くなってしまったし、ほとんどとってつけたようだが、いい映画だという感想を持った。
(2005.10.22)
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