タイトルに冠されている「インディアン」とは、ネイティブ・アメリカンのことではなく、
ハーレーと人気を二分したオートバイのメーカー名。本作は1920年式の「インディアン・スカウト」を、
40年以上かけてカスタム・チューニングし、齢63にして世界最速の記録に挑んだニュージーランド人・バート・
マンローの姿を描いた、実話に基づいた作品である。
こう聞くと「いつまでも夢を追い続けることの素晴らしさ」とかを描いたよくある感動モノか、などと思われる人も多いだろう。
それは実際その通りなのだが、本作はその手の作品としては些か趣が異なる。と言うのも、本作にはありがちな汗臭さや泥臭さが殆どないのだ。
それでいて主人公にしっかりと感情移入させ、きっちりと共感と感動を与えてしまうロジャー・
ドナルドソン監督の手並みには思わず感心させられた。
元々「挑戦」やら「夢の実現」やらを題材にした作品というのは、
主人公の情熱の大きさやモチベーションの高さを描くために、「苦労」とか「葛藤」とかを強調しがちだ。しかし、 本作はそれらをあからさまに描くのではなく、全てを63歳という彼の年齢面に触れることでやんわりと示唆するだけに留めている。
バートの情熱の結晶とも言える手製の「インディアン改」ですら、モンスター・
マシンに組み上げられていく苦労が描かれることはなく、ただ出番を待つだけなのだ。
勿論、本作にはバートがアメリカ・ユタ州にあるボンヌヴィル塩平原で行われる「スピードウィーク(最高速度記録会)」
に出場するまでの様々な苦労や障害も描かれている。だが、どのエピソードも焦点を当てているのは苦労の大きさではなく、
愛すべきバートの人間性や彼のハートそのものなのである。
隣家の少年には「リスクを恐れてはいけない。それが人生ってもんだ」
「夢を追わない人間は野菜と同じだ」などと静かに語り、
一方的に因縁を付けてきたバイカー軍団にも暖かくアメリカ行きを見送られる。 辿り着いたアメリカでも行く先々で人々の心を掴んで放さない――そんな誰もが愛さずにはいられない"やんちゃ爺さん"を、
アンソニー・ホプキンスは見事なNZ訛りで演じ切っており、
この静かな情熱を熾火のように内に秘めた稀有なキャラクターに血肉を与えることに成功している。
ただ、本作が実話ベースの話とはいえ展開が少々都合が良すぎるのではないか?という印象を与えてしまう面があるのも事実だろう。
特にアメリカに渡ったバートの姿を描いた中盤以降のロードムービー風の展開にそうした印象を持つ人は多いと思われるが、
もしそう感じたならそれは監督の意図を汲み取れていないと言わざるをえない。
なぜなら、監督は本作を通じてバート・マンローに敬意と愛情を捧げているだけでなく、バート・マンローという人間に仮託して、
ニュージーランド人(=キウィ)の心意気、愛すべき気質を様々な形で抽出しようと試みているからだ。
中でも顕著なのが所謂「マイトシップ(=仲間意識)」で、これは一般にオーストラリア人の気質を表す言葉とされているが、初対面でも
「グダイ、マイッ!(Good-day Mate!)」と挨拶してくる気さくな国民性は、ニュージーランド人にも見てとれるものである。
実際、字幕には出ないが、アンソニー・ホプキンスはどの場面でも「マイマイ」言っており、キウィ(とオージー)男子の典型的な口癖を用いて、
バートがマイトシップの持ち主であることをさらりと演出している。この辺りは、
マイトシップやキウィ気質を知り尽くしたオーストラリア生まれのニュージーランド人である監督の面目躍如と言ったところだろう。
一見出来すぎなロードムービー風の展開ではあるが、異文化との出会いや交流場面で自らのナショナル・
アイデンティティーが強く意識されるように、恐らく監督はアメリカ人やアメリカ文化に触れるバートの姿を通して、
キウィ気質を異化してみせることを狙ったに違いない。
そして、監督がバート・マンローという人物像や彼の人間性を伝えるエピソード群から、タフネスさや頑固さ、
偏屈さといった彼が当然持っていたであろう側面を意図的に捨象しているのも、
全てキウィらしさを際立たせたいがためであるように筆者には感じられた。その意味で、本作は事実を基にした物語ではあるが、
キウィ気質を賞賛するファンタジーでもあると言っていいのではないだろうか。
ともあれ、今何かに挫けそうになっている人や何かに挑戦しようと思っている人には、是非観てもらいたい作品である。観終わった時に 「夢を持つことの大切さ」「挑戦し続けることの重要性」「負け組とは自ら負けを認めた者のことだ」といったシンプルだが力強いメッセージに、 きっと素直に肯くことができるはずだ。
(2007.1.22)
主なキャスト / スタッフ
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