連載第28回 放送第16話『科特隊宇宙へ』(前)
第16話は、『ウルトラマン』では初めて宇宙が舞台。バルタン星人が再登場します。第2話で敗れた残党が、金星探査ロケットを襲って科特隊(とウルトラマン)をおびき寄せ、その間に集団で再び地球に進攻。ウルトラマンは、バルタン星人が根拠地にするR惑星と地球でダブルヘッダーの闘いを強いられながら、テレポートの瞬間移動、八つ裂き光輪など新技を次々と披露します。ウルトラマンのさらなる超能力開陳に呼応するのがイデ隊員。複数の新発明を披露し、単独でバルタン軍団を迎撃する鬼神の大活躍を見せるのでした。急に! スケールが大きく賑やかなエピソードです。
本家東宝はすでに、スプートニク以来の宇宙時代の世相に応じて『宇宙大戦争』(59)『妖星ゴラス』(62)『宇宙大怪獣ドゴラ』(64)などといった特撮大作を世に送り出しており、ゴジラも、X星人が登場した『怪獣大戦争』(65)で初めて宇宙へ遠征しています。『ウルトラマン』にもこんな宇宙作戦譚が用意されるのは必然。
未見の方のためにガイドしておきますと、上記した映画、みんな楽しいですよ。特に近年のデジタル作品のVFXに馴染んだ眼で触れると、カラフルで精密な円谷特撮は、恍惚に近い喜びをもたらしてくれる。なんでもかんでもアナログ時代の特撮のほうが良かった、と頑固に主張する世代の声は若い人には正直うるさかろうと思います。僕が代わりに謝りたいぐらい。でもね、やっぱりミニチュア操演とフィルムの綾なすマテリアル感には格別なものがあり、年少のうちにその味を知ってしまうと忘れられないものなのよ。フィギュアの原点と捉えてご理解くだされ。映画自体の出来は平凡な『ドゴラ』でさえ、冒頭の人工衛星の場面はとんでもないんです。『機動戦士ガンダム』(ファースト・ガンダム)のスペース・コロニーがあのクオリティで実写化されたら……と想像してみるだけで、今でも胸が締め付けられそう。
第15話『恐怖の宇宙線』では、日本神話の天孫降臨と初代ウルトラマンには似たところがある、と切り口を見つけました。描かれている宇宙はすなわち天上の国のことであり、古代と今をむすぶロマンの場でした。ガヴァドンがウルトラマンに宇宙へ運び去られるのも、まるで昇天のように描かれていましたっけ。第16話は対照的に、「人類最初の金星探検」計画に宇宙人の侵略が絡む、リアリズム基調のストーリーです。全滅をのがれていたバルタン星人がまたも地球を狙う、過去のエピソードを引き継いだ設定によって、『ウルトラマン』全体に興趣あるパーセクティブも生まれていますし。
『ウルトラマン』をつかまえてリアリズムなんて書くと、ヘンに聞こえるでしょうか。ただでさえ第16話は、大気圏外を飛ぶ有人ロケットのなかで重力があったり、(多少のエクスキューズはあるとはいえ)R惑星という未知の天体で人間が酸素を呼吸できたりと、科学考証の素朴さ、細かくこだわらない大らかさがかなり目立ちますから。科学がこれからも発達することを前提とする宇宙物SFのコンセンサスに則っている。大体こんな意味だと解釈ください。藤子・F・不二雄の短編漫画に、SFの設定にリアリティを求められる漫画家の話があります。「でもねえ」と困る彼に、担当編集者はニヤニヤ笑いながら、こう助言します。
「もっともらしさといってもいいですよ/読者がなっとくして話についてきてくれるだけのね」(「あいつのタイムマシン」)
僕が言うのも、そういうことです。
しかしリアリティというのも、くせもの。使う人すら振り回してしまいがちな言葉です。
ここでまたもヌケヌケと脱線して評論漫談を始めさせてもらいます。リアリティは映画評ではおなじみで、特に描写の不備を指摘する時に非常によく用いられる、また誰でも用いやすい言葉だからです。例えば、
「ヒロインの仕事や環境であんな優雅な暮らし、現実にはありえない。リアリティに欠けている」
「極地にいるはずの主人公が少しも寒そうに見えないリアリティ不足で、全体に迫力減」
などなど。見たままの感想によってズバッと映画のウィークポイントを斬ることができる、強い速効性があるんですよね。見る側の優越感をくすぐる側面もどこかあるようです。
そこが、前から気になっていました。良い意味で使われる場合を考えれば、実はリアリティとはアイマイで、けっこう他愛ない。アンソニー・マンの西部劇は、銃弾が岩に当たると、ピシッと高い音とともに岩肌が削れるトリックに凝っている。ジョニー・トーのアクションは、銃を撃つとちゃんと薬莢が飛ぶ。そんな描写で僕らはすぐに楽しくなり、リアリティがあって良いねーとニコニコできます。こんなにたくさんの人を射殺して大丈夫かよ! という一番の大嘘はあっさり問題にならなくなる。
突き詰めれば見る人の関心は、「映画の嘘」をいかにスムーズに、上手くついてもらえるかどうかに行き着きます。リアリティという言葉そのもののリアリティ。これは案外、顧みられていません。顧みられないまま先ほど例に出した「リアリティ不足」のように否定的な角度で用いると、急に上から査定するような冷たさを帯びてしまう。どうも僕は、おっかなくて使いにくいんです。
作り手はけっこうな割合で、映画評の書き手の半数を内心信用していません。この残念な事実は昔も今もあまり変わりないでしょうが(みなさん大人ですから、パブリシティの席などではもちろんおくびにも出さない)、それは、作る側の苦労も知らず汗もかかずにけなしやがって、という直情的な場合のみには限らないと思っています。
作る側の苦労とは多くの場合、その人たちの誇りでもあるからです。逆に、論者がすぐに想像でき感心できるような現場の苦労ならば、別に矜持にもならない。それよりも(いちばん苦労した、それ故に)映画の不安定で繊細な部分に対して自分の言葉を探さず、常套句を頼みにして誉めたり批判したりする人たちの味気なさ、思いやりと粘りに欠けた態度が情けなくて、傷つく。こういう場合もあるのではないでしょうか。
リアリティがない、と一刀両断されれば、どんな映画だろうとたちまち不利。それだけの強い言葉です。でもなぜか、絶対的に正しいとも思い切れない言葉。どう使っても、切っ先が映画の核に達している感触をなかなか持てない言葉。
直感のまま話を進めているので論拠は弱いのだけれど、どうも僕のなかでは、リアリティという言葉が内実の弱いまま常套句として独り歩きしているのは、映画評を書く人、書きたい人の少なからずが、芸術分野における「リアリズム(写実主義)」と「アクチュアリズム(現実主義)」を混同しているからではないか、と疑問がまとまりつつあります。
ここで僕の捉えている「リアリズム(写実主義)」とは、作り手が訴えたいテーマ、重要な真実と考えること、などを人情や一般通念に沿って、わかりやすく伝える方法のことです。なんでも作家・文芸評論家の伊藤整は、「(文学における)最も写実に近い方法は風刺である」と言葉を残しているそうですね。とても腑に落ちる考え方です。なんとなれば真実は、現実社会の生活においては見えにくいからです。静かに隠れているものを発見するための現実との手続きとして、物語は昔から存在してきた。そういうことじゃないかなあ。
いわゆるリアリティのあるなしだけで判断していけば、荒唐無稽どころかムチャクチャという結論になってしまう。そんな『ウルトラマン』がなぜ今見ても面白いかをちゃんと納得しておくためにも、しばらく寄り道させて頂きました。
宇宙が人間にとって近い存在になるのは素晴らしいことだ。しかし、そこは全てがコントロール可能な、幸福な新天地なのか。(米ソの冷戦による)政治・経済の利益が優先する現実の宇宙計画に、果たして驕りが無いと言い切れるだろうか。
第16話は、こうした作り手の疑念が托し込まれたエピソードです。万事めでたしで終わるストーリーなので踏み込みは浅いものの、目に見えない不安が共通感情となっていなければバルタン星人だって復活できませんものね。第15話とは対照的と前述しましたが、人智を越えた領域に不遜に向かうことへの畏れはベースとして共通し、絶妙に呼応しあっています。
こうなると次第に、イデ隊員の発明家振りがいよいよ過剰に、本格的になってきたエピソードでもある点を、どう捉えてよいか、課題が生まれてきます。
(つづく)
( 2012.3.17 更新 )
(注)本連載の内容は著者個人の見解に基づいたものであり、円谷プロダクションの公式見解とは異なる場合があります。
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