なんと隙のない映画なのだろうか。群像劇というコントロールの難しいスタイルの作品の中にあって、本作ほど細部まで計算の行き届いた作品は近年ではそうはなかったように思う。そして、そうした計算を計算と感じさせないように綿密に施された演出によって、本作を観る者誰もがアメリカ社会の核心的部分を、まざまざと見せつけられたような気にさせられるに違いない。
加えてこの作品の豊穣さはどうだろう。本作には喜劇があり悲劇がある。下劣さがあれば高貴さがあり、怒りがあれば喜びがある。愚かさがあれば賢さがあり、憎しみがあれば優しさがある。そして、愛と孤独が確かに刻み込まれているのである。かくて、様々な登場人物達が織りなすアンサンブルという群像劇の特性を最大限に活かした本作は、36時間という時間軸の中で人間の営為そのもの、人間存在の真実そのものを見事に炙り出しているのである。その意味で、本作にはどこかブルューゲルの絵画を思い起こさせる圧倒的な力強さがある――そう言ったら誉めすぎであろうか。
クリスマス間近のロサンゼルスを舞台にした本作は、黒人刑事(ドン・チードル)が深夜のハイウェイで起こった自動車事故に遭遇するところから始まる。カメラは彼が事故現場の脇で発見された、若い黒人青年の死体捜査に協力しようと歩み寄っていく姿を追いかけながら、その若い黒人青年の姿を映す代わりに一日ほど遡った別の場所を映し出す。そうしてこの若い黒人青年が死に至るまでに関わった人々との関係や、その関係の中で派生した関係――普通ならその場限りで消えてなくなるような、関係とも呼べない些細な関係――をリレーさせて、この自動車事故の真相を浮き彫りにしてみせるのだ。
この作品には、刑事とその家族、自動車強盗、警官達、地方検事とその妻、人気TVディレクターとその妻、鍵屋とその娘、雑貨屋の主人など、様々な人種と階層の人々が登場するが、中心的に描かれているのは彼らが日常的に晒され、そして抱いてもいる偏見や差別そのものである。そうした差別や偏見の醜さ、下劣さを真っ正面から見つめ、それらが人の心をどれほど毒し、頑なにさせてしまうかを丁寧に映し出すことで、「人種のるつぼ」ではなく「人種のサラダボール」と化したアメリカの現実、アメリカ社会の病理を解剖していく。
こうした作品の場合、多くは「差別者と被差別者」「悪人と善人」「加害者と被害者」というような、単純な二項対立的図式で描きがちである。本作が素晴らしいのは、そのような安易な図式化を注意深く避けている点に他ならない。虫酸が走るような差別主義者が、家に帰れば父親の病状を心から心配する孝行青年の一面を併せ持つように、本作に登場する人物は皆、一つの枠では捉えきれない多面的な人物造形が施されており、一つの尺度で人物を捉えるということがないのだ。何らかの形で違う角度から光を当て、重層的に人物を描いているからこそ、登場する人々の姿や言動が一際生々しく、真に迫ったものとなっているのである。
特に本作は、人物の言動という眼に見える形で現れる差別感情や偏見を、意図的に露悪的に描こうとしている節がある。これは勿論、差別や偏見を描くという直截的な意味だけではなくて、寧ろそうした差別意識を当人が気づかないうちに抑圧している可能性、即ち誰もが差別者=加害者の側に転落する可能性があることを対比的に強調するためであろう。そして、こうした人々の無意識にまで食い込んでいる構造的な差別意識が、銃の存在によって更に危険なものになってしまいかねない、というアメリカ的な問題点へと巧みに収斂させていくポール・ハギスの手腕は見事の一語に尽きる。
本作は、他者に対して差別や偏見を抱いてしまうという人間の暗闇を見据えた作品だが、さりとて単に差別を抉り出すだけの強面社会派作品というわけではない。そうした誤解は「透明マント」や差別表現に代表されるようなある種の「分かりやすさ」に起因しているのかもしれないが、恐らくポール・ハギスの狙いは、人間の営みそのものを包摂した、言うなれば、人間の聖性と俗性を抉り出した上で人間そのものを賞揚することにあったはずだ。希望、赦し、労り……なんでもいいが、天使の街・ロサンジェルスに住む人間全体を見守るような本作の幕切れは、どこまでも優しく清々しい余韻が広がっている。
(2006.3.6)
主なキャスト / スタッフ
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