太平洋戦争中、アメリカ軍が日本軍以上の被害を被った唯一の戦場である硫黄島。その南端に位置する摺鉢山に、
アメリカ国旗を高らかに揚げる五人の海兵隊員と一人の海軍兵士の姿を収めた一葉の写真――後にピュリツアー賞を受賞し、アメリカで
「世界で最も美しい戦争写真」とまで言われこの写真を、多くの人が何かの形で目にしたことがあるだろう。
本作はこの写真に秘められた真実と、たまたま被写体となったことから戦時国債の販促キャンペーンに担ぎ出され、
国民的英雄として祭り上げられてしまう生存兵士三名の姿を描いた作品である。
何より驚かされるのは、国家そのものの象徴である「国旗」を中心に据えた戦争映画であるにもかかわらず、
この作品から昂揚感というものが全く感じられないことである。それはやはり、
欺瞞を凝視するイーストウッドの透徹した眼差しによるものであろう。
特に印象的なのが、冒頭近くで硫黄島に赴く途中で船から落ちた兵士が、
救助されることなくただ流されていく光景に愕然とする兵士達を捉えたシークエンスだ。「海兵隊は仲間を決して見捨てない」
と叩き込まれていた彼らが(そして観客である我々も)、軍隊の欺瞞を目の当たりにすると共に、
これから待ち受ける戦場がどのような場所であるかを予見させるには十分過ぎるだろう。そして、この予見通りに酸鼻極まる凄惨な上陸風景が、
直ぐにスクリーン狭しと繰り広げられるのである。
先刻まで言葉を交わしていた同僚が次の瞬間には首だけとなって目の前に転がり、戦車が兵士の遺体を無造作に踏み潰して上陸する、
そんな戦場の現実を見せつけるよう描き出していくこのシーンには些かも容赦がない。
しかし、それは戦場のリアリティを追求するための映像というよりも、
後に前線を退いた帰還兵達が花火やアイスクリームにかけられるソースといった、
日常の思いがけない事柄から戦場を想起してしまう姿にリアリティを与える為のもののように思える。
その意味では、この物語を構成する時間軸を「戦場での体験」「帰還後の国債販促キャンペーン」
「年老いた帰還兵達が戦場の実相を語る現代」の三つに解体して、それらを自在に縫い合わせるように進行させたポール・
ハギスの脚本は一定の効果を発揮していたと言っていい。尤もこの時制の解体が、
脚本の不安定さに繋がってしまった面があるのは否定できないが。
特に序盤の30分は、物語の骨子が見えないこと、登場人物全員が特徴のない軍服を着ていること、
焦点を当てようとしている人物が六人に及ぶといったことと相俟って、予備情報を持たない者には非常にわかりにくいのだ。
これは端的に言えば、物語全体を貫く「視点」がこの作品には欠けていることを意味している。原作はライアン・
フィリップ扮する衛生兵の息子が綴ったもののようだが、本作ではその体裁の一部を殆ど恣意的に利用するばかりで、
息子の視点が物語全体を貫いているわけではない。だから、どうしても腰を落ち着けて見ることが出来ないのである。
ただし、そのように時制を解体することによって、本作が「劇的」になることを巧妙に避けている点は見逃すべきではないだろう。
本作は英雄に祭り上げられてしまった青年達の挫折の物語であり、父と子の物語でもあるが、そのいずれの物語からも「感傷」
を意図的に排除している。「感傷」という言葉に語弊があるならば、「感動」と言うべきか。いずれにしても、
それはプロパガンダとして利用された三兵士の姿を描いた本作が、観客の情緒に訴えるようなウェットな物語になることで、
別のプロパガンダとして悪用されることを避けるために他なるまい。
劇的な演出を排除しながらエピソードだけを積み上げるという本作のスタイルは、英雄として祭り上げられてしまった三兵士の戸惑いや、
彼らの心身に深く刻み込まれた戦場体験という桎梏も、余り掘り下げられることなく細切れにしてしまってはいるけれども、
それでも賞味期限の切れた「英雄」の悲哀とただ忘れ去られていくだけの戦没者達に対するイーストウッドの真摯な思いは確かに伝わってくる。
「戦死者こそが真の英雄である」と言い切る本作を観終わった時に、図らずも筆者が想起したのは「英霊」という言葉だった。
戦場で散っていった多くの英霊達と彼らが安らぐとされる靖国の思想、
それらは形は違えども本作が描き出そうとしているテーマとどこか通底しているのではあるまいか。そして、
そのような思想がアメリカにもあれば、或いは死ぬまで戦争の記憶に苛まれた彼ら帰還兵達の苦悩も、多少なりとも和らいだのではあるまいか――
。
もしも本作が、そうした宗教的な装置の欠如がもたらした悲劇であるとするならば、本作と対をなす「硫黄島からの手紙」は、
そうした宗教的な装置の存在がもたらす悲劇を描いたものになるのかもしれない。
(2006.11.8)
主なキャスト / スタッフ
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