映画はこれまでたくさんの悲惨な朝を描いてきた。ヒッチコックの『鳥』(63)の暁闇のラストシーンでは、
夜通し死闘を繰り広げた人物たちが地表をびっしりと埋め尽くす鳥にうつろなまなざしを投げかけていたし、『フェイシズ』(68)では、
乱痴気騒ぎで一夜を明かした夫婦が、淫蕩の疲れをへばりつけた互いの顔を朝日に晒して、失望と諦観の中へと沈み込んでいった。他にも
『悪魔のいけにえ』(74)の命からがら殺人者の手を逃れたヒロインが迎える狂気と哄笑の朝焼け、『アメリカの友人』(77)における、
友情の終焉を包み込む雨の朝など、夜の終わりと一日の始まりを意味する朝は、映画においてしばしば人物たちの絶望をあからさまに照らし出し、
人間存在の寄る辺のなさを浮き彫りにする残酷な装置として意地悪な光を放ち続けてきたのである。
クリント・イーストウッドの監督第24作目にあたる『ミスティック・リバー』(03)では、
幼馴染である二人の男がそれぞれ苛酷な夜を経験し、"夜明け"という語感の持つ明るさとはほど遠い、重く淀んだ朝を迎えることになる。
ショーン・ペン演ずるジミーの娘が何者かによって惨殺されたあとの数日間が、物語の背景となっている。それによって、
キャメラはとてつもなく大切なものを喪った人間の傍に貼りつく権利を得るのだが、ジミーは遺された子供たちの父親として、
または硬派な生きざまを貫く男の矜持として、周囲に対して気丈に振舞いつづけざるをえない。そんな彼が号泣の醜態を晒すのは、
気弱な旧友デイブを前にしたときだけだ。
少年時代、遊び仲間だったデイブは、ジミー、そしてもう一人の友だちショーンの前で誘拐されてしまい、
四日間にわたって森の奥に監禁され陵辱を受けた。彼は一応生還を果たすのだが、誘拐事件が刻み付けた傷の深さは、
彼が路上をさすらうときの亡霊の如き憂愁に如実だ。邪悪な現実に触れたことで、ジミーとショーンの少年時代もまた終わりを告げたのだろう。
それから25年が経って今回の事件が起きたときに、デイブがジミーを自己抑制の軛から解放したのは、ジミーがまだ少年だった時代の気持ちを、
寡黙なデイブがふっと甦らせたからなのかもしれない。
ところがデイブもまた、"数日前、自分は誰かを殺してしまったのではないか"という、恐怖と混乱にみちた不安の渦中にいるのである。
やがて彼が自分の娘の殺害に何らかの形で関わっているらしいことを知らされるや、腫れあがった瞼を隠すためのジミーのサングラスは、
復讐に燃える者の邪悪な記号として不穏な存在感を放ち始める。
朝が訪れるのは、すべてが手遅れになったそのあとだ。
そのときキャメラは早朝の閑散とした通りを俯瞰しながらゆっくりと下降し、酒瓶を手に湿った路肩にへたり込むジミーと、
彼に近づく車とを捉える。外れかかったネクタイを胸にぶら下げたショーンが車から降り立ち、
孤独に飲み明かした様子のジミーに向かって真犯人の正体と事件の顛末とを告げる。それを聞いたジミーの反応は、
彼のために八方手を尽くして捜査活動に取り組んできたショーンをしたたかに打ちのめすものだ。
このとき我々観客は、ジミーが昨夜何をしでかしたのかすでに知っており、
ショーンの衝撃と絶望の表情はあらかじめ想定されたものとしてスクリーンに映し出される。そんな凝視に耐えるケビン・
ベーコンの繊細な演技は賞賛に値するが、同時に我々は「悲劇」なるものは、少年デイブが「車に乗って通りを去っていった」
冒頭で起きてしまっており、それは人物たちの大切な何かを決定的に奪っていたのだという厳粛な事実を突きつけられることになる。
暗然と見守らざるをえない淡い朝焼けの中、路上に佇む二人の男は、かつてあった希望という幻想に別れを告げ、
べつべつの方向へと歩み去っていく。
犠牲や復讐といったキリスト教的な主題が物語の根幹を支え、
十字架や贖罪に関する台詞が露骨に象徴的意味合いをもって繰り出されるにもかかわらず、
この映画は神による救済など特に期待していない様子である。川がやがて母なる海へ流れ込むことなどあてにならぬと言いたげに、
イーストウッドは終盤、遺された人物たちによる無言劇を用意する。愛を取り戻した者が愛を喪った者の哀訴に目を伏せ、
永久に消えることのない憎悪が雑踏に刻まれ、醜悪な対立が果てもなく続くことを仄めかすジェスチャーは、
さしあたっての物語の結末を提示するメディアである「映画」であることをあっけなく放棄し、「この世」
という終わりのない川の流れへと我々を引き戻す。
人は心の内奥に、デイブが負ったものと同種の傷を隠していないだろうか。ジミーとその妻のように、愛する者との暮らしを守るため、
犯した罪を隠蔽したことがなかっただろうか。ショーンのように、悲劇の波間を漂うほかない無力を日々感じていないだろうか――。
我々は背中を押されるまま暗い川に漕ぎ出しながら、
岸辺に幽鬼の如く佇んでこちらを見送るイーストウッドの険しい表情を不安げに振り返るほかない。
五人の主要人物を演じた役者陣の演技は言わずもがなだが、ふとカサヴェテスを想起させぬでもないイーストウッドの直球演出、
陰影に富んだ光と影で人物たちを引き裂くトム・スターンのキャメラ、名手ブライアン・ヘルゲランドの強靭で緻密な脚本等々、
この映画を称える言葉は枚挙に暇がない。筆者個人としては、これほど打ちのめされる経験をした映画は他にない。未曾有の傑作という以外に、
この映画を形容するすべを知らない。
(2004.2.22)
主なキャスト / スタッフ
TRACKBACK URL: