(結末のネタバレあり!)
クリント・イーストウッドという人は、才能が枯渇することを知らないのだろうか?21世紀に入ってからも、『ミスティック・リバー』(03)、『ミリオンダラー・ベイビー』(04)、『硫黄島からの手紙』(06)、『チェンジリング』(08)などの名作を世に送り出し、その手腕にはいつも感服していたが、4年ぶりに監督・主演を務めた新作『グラン・トリノ』(08)でもその期待を裏切ることはない。
妻に先立たれたウォルト(イーストウッド)は人種差別主義の偏屈で孤独な老人。彼の口から飛び出すのは、「クロ」だの「イエロー」だの「ジャップ」だの、差別用語のオンパレード。だが、隣に住むモン族の少年タオ(ビー・バン)が同じモン族のチンピラにそそのかされ、ウォルトの愛車〈グラン・トリノ〉を盗み出そうとしたことを契機に、タオとその姉スー(アーニー・ハー)との交流が始まる。
前半はモン族の風習に戸惑うウォルトを、ユーモアを交えて描き、見る人の笑いを誘う。人種は違うが、彼らの暖かいもてなしを受け、彼らと交流するうちに「(子や孫の)身内の奴らよりも身内らしい」と感じるようになる。だが後半、タオがモン族のチンピラの争いに巻き込まれ、「タオに手を出すな」と暴力で警告したウォルトへの報復とばかりに、今度はタオの家族が身の危険にさらされると、それまでのユーモアがぶっ飛び、緊迫感が一気に増してくる。
ウォルトは朝鮮戦争に従軍し、朝鮮の人々を殺害したという重苦しい過去を背負っている。その罪を心の奥底に封印していたが、タオ達との交流を通して、その罪と向き合うこととなる。「人を殺すとはどういうことか?」――ウォルトはそれを十分過ぎるほど知り、こう訊ねたタオに「知らなくていい」と答える。タオへの愛情を感じさせる言葉である一方、彼の犯した罪の大きさを実感させるもので、心に重く響く。暴力を暴力以外の方法で解決できるのか?暴力はまた新たな暴力を生み出すのではないか?意を決した彼はチンピラ達の元へ向かう。
今までのイーストウッドであれば、『ダーティハリー』シリーズ(71、73、76、83、88)や、『荒野の用心棒』(64)、『許されざる者』(92)などの西部劇でもそうであったように、銃に対しては銃で立ち向かい、相手を倒して自分の身を守ってきた。イーストウッド=銃、というイメージがある。だから、ウォルトがチンピラ達と対峙した時、懐に何を隠し、どういう行動を起こすかを想像することは容易だった。だが次の瞬間、彼のとった行動に筆者の予想はものの見事に裏切られた。彼は銃を携帯せずにチンピラに立ち向かい、自らを相手の暴力と憎悪の受け皿として、その連鎖を食い止めたのだ。タオ達と交流する前は、他人が自分の庭に一歩足を踏み入れただけでも(それが故意ではなく、間違って踏み入れてしまっただけだとしても)、「俺の庭に入ってきたらぶっ殺す」と相手を鬼のような形相で睨みつけ、銃を突きつけて威嚇していたウォルトが銃を持たずに、なのだ。暴力がさらなる暴力を生み出すことを痛感していたウォルト。だが、このことは頭では理解できても、実際に行動を起こし、解決することは非常に困難だ。長い間、相手を暴力や恐怖で屈服させることが、手っ取り早い解決策と考えられてきたのだから。今日も世界のどこかでテロ行為が行われ、それがまた次の争いを引き起こすのであろう。イーストウッドはこのような負の連鎖を憂い、どうすれば争いが終わるのか、そのためには、まずは自分自身から変わらねばと気づき、本作に反映したものと思う。ウォルトの行為は、これまでのイーストウッドの作品の傾向からは驚くほどの変わりようだ。イーストウッドのトレードマークと言うべき銃を自ら放棄したことによって、自分の身が危険にさらされ、その結果はあまりにも悲劇的であるが、それくらいの強い覚悟で立ち向かわねば暴力と憎悪の連鎖は断ち切れない、と訴えているのだ。
ただ、この変化は、本作で急激に起こったことではない。思い返せば、ここ数年、イーストウッドの作品には変化の兆しが見えた。『ミスティック・リバー』では娘を殺された主人公が、犯人と思い込んだ幼なじみに対して復讐するものの、その後真犯人は別にいることが分かり、後味の悪さを感じさせ、太平洋戦争における硫黄島での激戦を日米双方の視点から見つめた2部作『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』では戦争の虚しさを、前作『チェンジリング』では行方不明の息子をめぐり、武器を持たず自らの信念だけを頼りに公権力と戦うヒロインを描いている。そして、本作。イーストウッドにとって俳優として最後の出演作となる本作で、暴力に対して、暴力以外に解決できる方法が何かある、ということを訴えたいがために、彼自身が近年試みてきた変化の到達点に辿り着いたと言えるような、究極の解決策を本作のクライマックスで見せたのだ。前述の4作品ではイーストウッドは監督に専念し、他の俳優の演技を通してその変化を伝えてきたが、本作では真打ち登場とばかりに、変化の集大成を自らが演じてみせた。それはまさに、「俳優」イーストウッドとしても極みの境地に達した、集大成というべき姿だ。
強靱な覚悟を持って臨まないと、暴力と憎悪の連鎖を断ち切ることができない。ウォルトは身をもってそれを示したが、そもそも果てしなく続く暴力の根源にあるものとは一体何なのか?本作では、イーストウッドはそれを米国が起こした戦争と、国内の移民・人種問題と捉えている。
タオ達の一族(祖父母の代と推測される)はベトナム戦争で米軍が撤退した後、モン族は米軍に協力したということで、祖国で迫害され、米国に逃亡して、そのまま生活を送っている。彼らは何も喜んで米国に来たわけではない。どうにか住む場所は確保できたものの、教育や仕事まで国の援助はない。タオやスー、そしてチンピラ達は米国で生まれ育ったにも関わらず、国に放置されたままの存在なのだ。そういう若者が生きる目的を見失い、チンピラと化してしまうのは、当然のなりゆきかもしれない。つまり、あのチンピラ達も、見て見ぬ振りをしてきた米国が生み出したものと言えるのだ。米国は「他民族国家」を掲げつつも、実際のところは、タオ達のような、やむなく米国へ渡ってきた移民の子孫が理不尽な人種差別を受けている。元はといえば移民で形成され、「人種のるつぼ」とも呼ばれる米国が、アジアやヒスパニック等の後進の移民に対して、拒絶感や不快感を示しており、米国の素晴らしい美徳の一つである、受容する心をいつの間にか失ってしまったのではないか。人種差別主義者のウォルトもポーランド系の移民の子孫だし、彼の床屋の友人もイタリア系だ。ウォルトは米国に受け入れられ、自分こそは真の米国人だというような優越感に浸っているが、自分のルーツを振り返り、他者を思いやる寛容の精神があれば、モン族の人々の苦境をもっと早く理解することができたはずだ。
そんなウォルトの心には朝鮮戦争が暗い影を落としている。朝鮮戦争もベトナム戦争も、米国が他国を戦場とし、その国を蹂躙し、多くの一般市民の犠牲者を出している。また、イラク戦争に関しては、戦争の大義名分であったはずの大量破壊兵器は存在しなかったというのに、米国からは謝罪の言葉もないままだ。イーストウッドはイラク戦争について、2003年5月に「極めて重大な過ちを犯した」と痛烈な批判を表明し、反戦の立場をとっている。そのようなイーストウッドが、米国が起こしてきた戦争を肯定するはずがない。だが、ウォルトが朝鮮で行った殺戮は、戦争という名の下で正当化され、その軍功により、彼は国から勲章まで授与されている。他人の命と引き替えにして、手に入れた名誉だ。その名誉を隠れ蓑として、50年以上も自らの罪を心の奥底にひた隠し、他人を受け入れることを拒否し、人種の違いだけで徹底して差別を繰り返してきたウォルト。その姿は今の米国の姿と重なる。だが、タオやスーとの交流で相互理解が深まるうちに、彼自身が変化していく。そして、その変化の先に見据えたものとは?――ウォルトの自己犠牲の行為は、暴力と憎悪からタオとスーを守ると同時に、差別と偏見に満ちた自分の人生にけじめをつけ、彼自身が長年苦しんできた戦争で犯した罪への贖罪であり、ひいては、米国が行ってきた傲慢な戦争への贖罪であり、そして未来に向けて米国の暴力と憎悪の連鎖を食い止める覚悟の表明と言えるのだ。
ウォルトにとっての、半世紀以上にも及ぶ戦争は終わった。だが、現実に生きている我々は、様々な争いの傷跡を抱えている。そして、米国では初のアフリカ系大統領が誕生し、今度こそ他民族との共生やそれを受け入れる、建前ではなく、真の寛容性が求められている。そのためには、まず、米国人自身から変わらなければならない。ウォルトのモン族の人々を受け入れる心の変化をいとおしく思い、憎しみも、怒りも、全てを受け止めるかのように両手を広げて倒れたウォルトを痛ましくも、悲しくも思うけれど、それを乗り越えて“CHANGE”することの必要性を、そして〈グラン・トリノ〉を運転する「友人」タオの姿に希望や和解を見出すことができ、「これこそが米国のあるべき姿」とイーストウッドは静かで優しい語り口で説いている。“CHANGE”を掲げる、まさに時代の変わり目にある今だからこそ、その「優しさ」が傷跡から染み入り、心の奥底まで届くのだ。
今年のアカデミー賞では、残念ながら無視された格好になったイーストウッドだが、この『グラン・トリノ』は文句のつけようのない傑作だ。従来からのイーストウッド映画のファンはもちろん、彼をよく知らない人でも十分に感動できる映画に仕上がっていて必見である。それにしても、イーストウッドの俳優としての姿がこれで見納めだなんて、あまりにも残念。本作での素晴らしい演技を見ていると、今月31日で79歳の誕生日を迎えるとはいえ、「まだまだ俳優として十分出来ると思うのに、もったいない…」とどうしても思ってしまう。だが、俳優人生の集大成と言うべきウォルトを渾身の思いを込めて演じたイーストウッドの姿は、我々の心にいつまでも生き続ける。そして、本作に託されたイーストウッドのメッセージに、米国も、そして世界も応えて行動を起こさなくてはならない。それこそが、賞を取ることよりも、イーストウッドが最も望んでいることではないだろうか。
(2009.5.15)
グラン・トリノ 2009年 アメリカ
監督クリント・イーストウッド 脚本ニック・シェンク 撮影トム・スターン 美術ジェイムズ・J・ムラカミ
出演クリント・イーストウッド,ビー・バン,アーニー・ハー,クリストファー・カーレイ,ジョン・キャロル・リンチ,
ブライアン・ヘイリー,ブライアン・ハウ,ウィリアム・ヒル
(c)2009 Warner Bros. Entertainment Inc. and Village Roadshow Films (BVI) Limited. All Rights Reserved.
4月25日(土)より、丸の内ピカデリー他にて全国ロードショー中
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主なキャスト / スタッフ
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