「あなたにとってジャズの魅力とは?」
よく訊かれる質問だ。
「一言で言うとさ、結局あなたはジャズのどこがいいの? ジャズ聴いていて何かイイことあるの?」
討論番組の司会者気取りな質問には心底ウンザリする。
「一言でいえないところが、魅力なんだよ、バーロー!」
そう言いたい気持ちをグッと呑み込み、
「一言で言えないほどたくさんの魅力があるところが魅力なのです」
と応じることにしている。
「よろしければ、あなたの奢りで一晩飲みに付き合っていただければ、たっぷりと、一言ではいえない魅力を語り明かしてもいいですよ」と冗談めかして付け加えることも忘れない。
実際、一言で総括できてしまうほどの魅力しかなかったら、飽きっぽい私のこと、すぐに飽きていたことだろう。
“一言ではいえないたくさんの魅力”とは、音そのものの魅力はもちろんだが、それのみならず、自分の興味のフィールドが、どんどん広がってゆくところにある。
映画、文化、社会学、哲学、歴史、言語、酒、文学、楽器、オーディオ、ファッション、美術、デザイン……など、ジャズと密接に結びついたそれぞれの分野の魅力がどんどん広がり、深まってゆくのことがジャズの魅力であり、それらに対する造詣が深まれば深まるほど、ますますジャズ観賞が楽しくなる。
いわば、直接的、間接的に、私の日常のエトセトラとジャズはいい感じでリンクしており、いわば、ジャズとは私の生活の一部なのだと言っても過言ではない。
学生時代には、難解なみすず書房の人文書をウンウン唸りながら読んでいたこともあるし、その一方で、余興で飲み屋のピアノで軽くブルースもどきを弾いたら、女性客からナンパされたこともある。
だからといって、
「ジャズの魅力は、哲学できることです」
「ジャズの魅力は、ナンパの道具に使えることです」
といっても、たしかにその通りかもしれないが、一言で言い切ってしまうにはちょっと弱いし、第一、気取っているようで恥かしい。
ジャズを聴き、時々演奏し、せっせと文章を書き、ときには講演をしているお陰で、いろいろな人と親交を結ぶことができた。
しかし、だからかといって、
「ジャズの魅力は、一言でいうと、友達がたくさん出来ることです」
というのもちょっと違う。
これは、魅力というよりも「効用」か。
私の場合は、ジャズ周辺の様々な事象に興味を持ち、勉強し、探求し、少しずつ自分が成長してゆく楽しみが大きい。そして、自分が成長するとともに、昔聴いて理解したつもりの音源にも新たな発見や感動を見出せる。
それこそがジャズを聴きつづけることの大きな楽しみ。そう、ジャズとは自分の成長を映し出す鏡でもあるのだ。あくまで私の場合だけれども、ね。
だからこそ、キチンと説明しようと思えば、時間をかけて順序だててキチンと説明はできるのだが、「一言でいってよ」といわれても言葉に詰まってしまうのだ。
先日、同じ質問を神保町のジャズバーで受けた。
相手は親しいデザイナー。
私の個人サイト「カフェ・モンマルトル」のトップページのリニューアルを提案、デザインしてくれた人だ。
グラフィックのほか空間のデザインも行い、ある店舗の売り場のデザインでは賞もとっている実力者で、日々、常に真面目に、ストイックに、デザインを探求している人でもあり、高名な占い師に占ってもらったところ、前世はハンガリー、ハプスブルグ家となんらかのかかわりを持っていた職人なのだそうな。
そのような方を相手に、まさか、「んなこと一言で言えるか!」とも言えず、くわえて、彼の質問の意図に興味半分なニュアンスが感じられなかったので、真剣に考えてみた。
といっても、2秒ぐらいだけど(笑)。
そして、気がつくといつの間にか口が動いていた。
「ジャズの魅力? それは死の匂いだね」
半ば無意識に口にしていた。
「私が強く引かれるジャズには、常に死の匂いがつきまとっているような気がするんだよね。強いて言えば、ジャズの魅力は“死の匂い”なのかもしれないです、私にとっては」
おそらく予想外の回答だったのだろう、彼はグッと身を乗り出してきたが、無意識に口をついて出てくる言葉の内容に、いちばん驚いているのは、じつは自分自身だった。
しかし、そうも言いながらも私が惹かれるジャズの音の佇まい、漂う哀歓や、それらを覆う全体的な刹那さ加減は、たしかに言い換えれば「死」に通ずる要素なのかもしれないな、と思い直した。
たとえば、私が好きなバド・パウエルやエリック・ドルフィーの演奏には、死というと大袈裟かもしれないが、どこか破滅的な暗い影が落とされているよなぁと思い至ってきたのだ。
マイルス・デイヴィスもそうだ。
露骨に「死」の香りは感じられなくとも、マイルスのトランペットには、どんなに熱狂的なサウンドで演奏していたときも、彼のトーンには、奇妙な諦めと諦観、そして表面的には露骨に感じ取れない静かな怒りが宿っている。
もちろん、「死」の香りはジャズの特権ではない。
むしろ、ジミヘン、ジャニス、レノン、シド・ヴィシャスにカート・コバーンなど、センセーショナルな死を迎えたミュージシャンは、むしろロック畑に多いような気がする。
しかし、それはあくまでミュージシャン個人の「死に様」であって、必ずしも彼らの発した音の陰に常に「死」の匂いがつきまとっていたわけではない。むろん、予備知識をもって遺された音を聴けば、死の匂いを感じ取ることは出来るのかもしれないが、少なくとも、私には、あまり感じられない。
しかし、ジャズの場合は別だ。
もちろん、すべてのジャズに死の匂いが漂っているわけではないし、むしろ、最近は死とはウラハラの健康的なジャズのほうが多く感じる。
そういう類の音を「死の匂いがないからジャズじゃない!」と断じる気はない。
それに、快楽主義色の強いソウルフィーリングに溢れたジャズも私は好きだ。
しかし、たとえば、40年代から50年代にかけての狂ったスピードに乗り、まるで命を削るように即興演奏が繰り広げられたビ・バップ。
ビ・バップよりもメロディアスではあるが、それでもどこかに「ヤバ」さと退廃的な空気の濃度の高い50年代のハードバップ。
なにかに取り憑かれたように切迫したブロウが繰り広げられる60年代のフリージャズ、あるいはモードを導入したコルトレーンや新主流派の熱いサウンド。
これらに強く心惹かれるのは、もしかしたら、それらのサウンドに通底して流れ、音の断片にひっそりと忍び込んでいる諦観や刹那的な音の佇まいなのかもしれない。
それらは、ジャズメン自身の生き様の反映なのかもしれないし、音の襞の中にひそやかに、しかし強く染み込んだ激動の時代のエネルギー感や、常に付き纏う退廃的な音のニュアンスもあるのかもしれない。
そうこう考えているうちに、私の好きな映画『ラウンド・ミッドナイト』に思いが廻った。
『ラウンド・ミッドナイト』は映画そのものが持つ佇まいに徹頭徹尾「死」の匂いが漂っている。
それは、題材そのものが、ジャズマンの生き様ということにもあるが、ジャズが持つニュアンス(つまり私の場合は「死の匂い」ということになるのだが)を敏感に感じ取り、非常にうまく映画の中にパッキングされた秀作だといえる。
題材は、実在した破滅的な生涯を送った天才ピアニスト、バド・パウエルと、彼に心酔しているフランス在住のイラストレーター、フランシス・パウドラとの交流のエピソードだ。
このエピソードを映画として料理しようという着眼点も素晴らしいが、それ以上に、退廃的かつ死の匂いをやんわりと漂わせながらも、ゆっくりと進行する物語のテンポが、まるで主役の伝説のテナー奏者を演じるデクスター・ゴードンのサックスの茫洋とした演奏とシンクロしているところが素晴らしい。
監督のベルトラン・タヴェルニエは、ジャズを分かっている。
いや、鋭敏な嗅覚で、優れたジャズが持つ退廃的で甘美な毒を嗅ぎわけたと言うべきか。起用したホンモノのジャズマン(=デクスター・ゴードン)の表現の本質も十分に理解していたに違いない。
太く茫洋としたスケールの大きいデクスター・ゴードンのテナーサックスのあの音色。“レイドバック奏法”と称される、彼特有のリズムのギリギリまで発音のタイミングを引っ張る独特な“後ノリ”タイミング。
この、棒を切ったように太く、一聴そっけない彼のテナーは、土佐の日本酒のように、あるいは、バーボンのオールドクロウのように、飲めば飲むほど、後になってほんのりと甘みを感じさせる味わいの時間差がある。
さらに、彼のプレイスタイルがそのまま映し出された喋り方。一見、生活能力の低いデクノボーかもしれないが、ひとたびマウスピースを加えると、そこから発せられるのは、武骨だがハートウォームな極上のジャズ。
デクスター・ゴードンという、どこを切っても“すべからくジャズマンでしか有り得ない器”にヨーロッパ在住時のパウエルの生き様を乗り移らせるだけで、ある種独特の風合いが作為性なしに生じてしまった。
この映画の成功は、デクスター・ゴードンを主演に起用した時点で約束されていたといっても過言ではないだろう。
加えて、ハービー・ハンコック(p)にジョン・マクラフリン(g)、ピエール・ミッシェロ(b)やボビー・ハッチャーソ(vib)という第一線で活躍中のベテランジャズマンを配したことも大きい。
凡百のジャズ映画にありがちな嘘偽りの要素が皆無な、徹頭徹尾ジャズな仕上がりになったのだ。
この映画全体が緩やかに心地よく発している「死の匂い」は、映画冒頭の場面からいきなり漂いはじめる。かつての盟友、そして麻薬で死んでしまった友人のジャズマンが住んでいたアパートの一室に、主人公のデイル・ターナー(デクスター・ゴードン)と彼の妻が引っ越してくる場面から、物語は始まる。
どんな映画も必ず終わりがある。始まった瞬間から、最後のシーンまでのカウントダウンが開始される。同様に、デイルがパリのアパートの一室に居を構えたシーンから、彼の生命もじわじわと心地よく終末へと向かう。
ミルク色な色調の画面と、作品そのもののタイム感がじわりとタメを効かせたアフタービートゆえなのか。死への道程は、静かで、退廃的で、ときに甘美ですらある。
この60年代のパリに流れる空気と時間の流れに身を委ねているうちに、少しずつ退色してゆく一人の伝説のテナーマンの生が、まるでリアルなお伽噺のようにわれわれの細胞に静かに侵食してゆくのだ。
ゆったりと退色していった彼の生は、ラストのモノクロフィルムの映像へと封印される。そこにあるのは、破滅でも希望でもない。ジャズマンの生き様の一瞬、一瞬のみが切り取られ、焼き付けられているのみだ。
即興の要素がほかの音楽よりも多くを占めるジャズの演奏は、まさに一瞬一瞬の創造行為。優れたジャズマンほど一回性を大切にし、やり直しの効かない一回、一回の演奏に自分自身を惜しげもなく注入する。
このような、ジャズを識る者としては当たり前なテーゼを、改めてつきつけてくれる作品が『ラウンド・ミッドナイト』なのだ。
これぞ徹頭徹尾、正しくジャズムーヴィ。この映画がジャズ映画でなくして、ほかの何がジャズ映画なのか。
ジャズを識りたければ、100枚でも200枚でもアルバムを聴くなり、本を読み漁ればよい。
しかし、ジャズを知りたければ、まずは、なにはさておきこの一本を鑑賞すべし。
(2007.12.12)
ラウンド・ミッドナイト 1986年 アメリカ
監督・脚本:ベルトラン・タヴェルニエ 脚本:デヴィッド・レイフィール 音楽:ハービー・ハンコック
出演:デクスター・ゴードン,フランソワ・クリュゼ,マーティン・スコセッシ,ハービー・ハンコック, ロネット・マッキー,ボビー・ハッチャーソン,ビリー・ヒギンズ,ウェイン・ショーター,ロン・カーター,トニー・ウィリアムズ,フレディ・ハーバード
ラウンド・ミッドナイト(amazon)
主なキャスト / スタッフ
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