野獣刑事
かつてのプログラムピクチャー、特に70年代東映のそれは、基本的にブルーカラー男性のために作られていた。
だから、エライ人や立派な人の成功や幸福といったものは、ほとんど描かれない。
勧善懲悪、或いはそれが裏返った露悪的な本音やヤケクソの暴発、下品なくらい即物的でわかりやすいギャグといったシンプルな世界観は、日々に疲れてるおっさん客達は自分本位の気楽な慰安と憂さ晴らしをこそ求めていて、リアルな人間を見つめるだの、現代社会に鋭く切り込むだのといった面倒くさい話なんか見たがらない(但し、スキャンダラスな興味が絡む時だけは別)という、かなり乱暴な見解から生まれていた。
でも、「乱暴で大雑把で隙だらけ」が前提だからこそ、誰にとっても気安くて、しかも正面から「本当」を掲げると恥ずかしくて口に出来ないようなミもフタもない本音を適当に溶かし込みながら、一時ムシの良い夢を見せてくれる(そして時には、擦り切れしこって縮こまった自分を解し、喝を入れてくれる)大らかさと風通しの良さが僕は好きで、今も(今だからこそ余計に)こうした映画たちを偏愛している。
工藤栄一の現代劇の多くも、労務者やチンピラヤクザなど、いわゆる社会の底辺に棲息する落ちこぼれ連中の物語が主で、前記の映画たちと同様、出来不出来以前に条件反射的な気安さと親しみを感じる。
けれど一方、かつての東映ファンだったようなおっちゃん達が、工藤作品、ことにこの『野獣刑事』を楽しく観ていたとは、ちょっと思いにくい。
工藤栄一は社会の隅っこに生息するしがない人間たちや、その日常の光景を、本当にキレイに撮る。
木造アパートの油染みだらけの台所、下水から立ち上る湯気、ネオン街の隅っこで座り込んでカップ酒を煽る労務者。
そういったものを、無理に美化しようとたり、逆にセンセーショナルに不幸を強調するような青さからはるかに遠いところで、親しい、愛すべきものとして撮り続ける。
彼らを皮膚感覚のレベルで知り、共感し、けれど彼らの主観に添う形で熱く語ることはない。決定的に客観的で落ち着いた視線は、優しいからこそ一層やりきれなさが強調されて、そうしたことを「当たり前」として敢えてやり過ごしながら生きているタフな、あるいは擦り切れ疲れた当事者からすれば、一時の慰安として楽しむには暗すぎただだろう。
これには、ヤクザ映画を嫌った彼が、仁侠や実録路線が全盛だった70年代にほとんど映画を撮らず(しかしこの間、彼はテレビドラマで大活躍していて、僕自身『必殺仕置人』や、あの『傷だらけの天使』のショーケンが死んだ水谷豊をリアカーに積んで夢の島に捨てに行く最終回の鮮烈な映像で、工藤栄一と決定的に出逢った)、再び映画に復帰したのが、既にプログラムピクチャーが終わりかけていた80年前後だったという時代状況の影響もある。
むしろ、同時代のATGやディレカン周辺の若手作家達による、より等身大で個人的な鋭り方をした作品群と並べた方が、しっくり来る気さえする。
また、脚本家の仕事を無視して、映像派監督である彼のこうした作品傾向を、彼の作家性とだけ説明することにも問題はあるだろう。
けれど、この時代に企画され、撮られた「しょっぱい男達」を描く物語に、彼の個性があまりにもぴったりと嵌まっていたことだけは間違いない。
強引なスタンドプレーも平気でやれば賄賂も取る、世のカマトトぶりを冷笑しながら、犯人の女を力づくでものにする。でも、女やその子供にはそれなりに優しいし、自分も安らぎたいやさぐれ刑事の緒方拳。気は優しいけど芯が弱くてだらしない(そこに可愛げがあって、子供に懐かれたりもする)、シャブを手放せない労務者の泉谷しげる。そんな2人の駄目男を、優しく受け入れながら依存してもいる、子持ちホステスのいしだあゆみ。
社会一般の人間関係のこすっ辛さが苦手で、自分の中にもなるべくそうした要素を意識したくない自分のような甘ちゃんにとって、彼らのような人間は(少なくとも映画の中では)愛しやすいし、だらしなく汚らしい暮らしぶりにも安らげる。現実には諦め悪く、プライドや上昇志向に捉われて汲々とし、まだいくらかの未知数や可能性が残っているかもしれない未来にしがみつくことに疲れている人間にとって、「ただそこにいる」だけの人間によって構成された世界というのは、一種のユートピアでさえある。
しかも彼らは、露骨な美化をされない一方で、映画的に絶妙に加工されている。長髪をオールバックにしてテラテラさせている緒方拳は、ちょっと若い頃の阿佐田哲也みたいなオールドスタイルの遊び人風で格好いいし、足の不自由な泉谷がはしゃぐ子供を追いかけてドタドタと付いていく様子をロングの固定画面でじっと見つめる映像は、唯々切なくて愛おしい。
しかしそうでありながら、あまりにもきれいに円環が閉じている世界に、どこかでもの足りなさを感じている「青い自分」もいる。こうした心地よさに首まで浸かってしまうと、生きていくための(エゴや悪意込みの)俗っぽいバイタリティを失ってしまいそうな不安にも駆られる。
考えてみれば、映画青年や文学青年が、底辺の人たちに勝手に思い入れて感傷に浸るというのも、ン十年一日のちょっと嫌らしい構図ではある。昔、この映画を初めて観た時にも、例えば同時期の新鋭監督たちが撮った『TATTOO<刺青>あり』や『ガキ帝国』といった銀行強盗やチンピラを扱った映画が、境遇や資質による限界や悲劇性が描かれてはいても、とにかく「最後まで戦い抜く」男の話だったのに比べると、大好きだということは前提に、わずかに食い足りなさを感じたのを覚えているし、今回あらためて観返してみても、中盤までは正直、ちょっと甘すぎるんじゃないかと感じていた。
しかし、優しさとだらしなさが不可分にないまぜになった人間たちを、共感の対象として可愛らしく描いてきたからこそ、自他の暴力に向き合い管理する厳しさを持てなかった結果の無残をこれでもかと(しかし、淡々と)見せ付ける後半の展開は、甘ちゃん共の胸をより深く抉ることになる。
生きることに積極的じゃない人間だって、生きることはタダじゃないし、一人で生きて一人で死ぬことに耐えられずに迷惑をはね散らかす。
戦い抜く力は勿論、わかりやすく破滅する甲斐性もない(だから、暴発的に愚かさを形にできる甲斐性があるだけ、泉谷の結末に痛みと表裏一体の暗いカタルシスを感じたりもする)。
ただ手をこまねいているうちに、肝心なことを取り返しが付かなくしてしまい、それでもだらだらと生き恥じを晒しているような情けなさを、どこかで自分のものとして感じざるを得ない時、自分を弁明、正当化する余地など何処にも無く、美化した形で好意的に受け入れられたところで何にもならない。
そのくせ、ただ孤独にそれをかみ締めることも出来ない。
そんな、正真正銘の駄目さを自分の中に認めざるを得ない時、人間の愚かな原型を掘り込んだような表現にだけ、わずかに孤独が癒される(おそらく、そうしたどうしようもないもののことを「文学」というのだろうと自分は思っている)。
(2008.2.3)
野獣刑事 1982年 日本
監督:工藤栄一 脚本:神波史男 撮影:仙元誠三 美術:高橋章 音楽:大野克夫
出演:緒形拳,いしだあゆみ,泉谷しげる,小林薫,益岡徹,成田三樹夫
(C)東映
http://www.cinekita.co.jp/
2月9日(土)~2月15日(金)までシネマアートン下北沢にて上映
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