「負け犬」――最近でこそあまり耳にしなくなったが、2004年の流行語大賞でトップ10入りした言葉だ。そう言えば、この頃は雑誌やテレビで盛んに「負け犬」という言葉が取り上げられていたっけ。酒井順子さんの著書『負け犬の遠吠え』(講談社、2003年)から出てきたもので、どんなに美人で仕事ができても、30代・未婚・子供がいない女性は「負け犬」である、と定義されている。この本のすごいところは、女性の社会進出、高学歴化や晩婚化が進んだ現代でさえも、「結婚こそが女の幸せ」というような古くからの価値観が厳然と残っているのが事実であり、美人であっても高収入があっても、結局のところ独身女性は「女として不幸よね」というような、何とな~く肩身が狭い思いを感じさせる世間からの無言の圧力を受けている様子を、「負け犬」というネガティブかつ強烈なインパクトを伴った言葉でズバッと言い表したことだ。
さて、この定義によると本作のヒロイン、高級ブランド「シャネル」の創始者ココ・シャネルはばっちり「負け犬」に当てはまる。実は本作を見ていて、著者の頭にふと浮かんだ言葉が、この「負け犬」だったのだ。もちろん、彼女が生きた20世紀には、酒井さんの著書は存在しているはずはないのだけれど、ココの生き方を見ていて、もしかしたら彼女こそ元祖「負け犬」だったのではないか、とも思ってしまった。筆者はシャネルというブランドそのものにはあまり興味がなくて(とてもじゃないがシャネル・スーツを買えるような収入はない!)、ブランド創設者としての「公」の生き方は本作を見て初めて知った次第だったのだが、「負け犬」ココとしての「私」の生き方にも興味を覚えた。まあ、筆者自身も定義上「負け犬」の1匹なもので、その辺りでシンパシィ(?)を感じたせいもあるのだが。
本作は1954年のパリを舞台に、70歳のココ(シャーリー・マクレーン)が15年の沈黙を破って復帰コレクションを開くものの、批評家達から酷評され、自分の過去を回想するシーンから始まる。ココ(若い時代を演じるのはバルボラ・ボブローヴァ)は母を病気で失った後、父に捨てられ孤児院で育つ。やがて、お針子として働き始め、ファッションに関して独特のセンスや審美眼を発揮するようになる。そんななか、裕福な家の子息のエチエンヌ(サガモア・ステヴナン)や英国人実業家のボーイ(オリヴィエ・シトリュック)と恋に落ちる。物語は1954年と過去を行き来しながら進み、ココの生き様が静かに浮かび上がってくる。
もし、1954年のパートがなく、バルボラの単独主演で「シャネル」のブランド立ち上げの過程を時系列に描いた作品であったなら、「既存の価値観と戦い、時代を切り開いたスーパーウーマン」のサクセス・ストーリーとなっていたことだろう。プレイボーイのエチエンヌはココを確かに愛したのだろうが、家柄が不釣り合いということもあり、結婚は考えなかった。また、公私ともにココの支えとなり、一度は彼女にプロポーズしたボーイですらも、結局は同じ英国人貴族の女性と結婚してしまう。愛する人を失い傷ついても、ファッションにかける情熱は衰えず、斬新なアイディアは周囲になかなか受け入れられなくても諦めずに前へ進み、やがて確固たる名声を築いたという女性の一代記は、多くの人の共感や尊敬を得、素直に賞賛したくなる。
だが、老ココを断片的に登場させることによって、単なるサクセス・ストーリーには思えなくなった。彼女はスカッとするような晴れ晴れとした笑顔を一度も見せなかった。強い意志を持って困難に立ち向かい、ビジネスは成功したけれど、愛する人と永遠に結ばれなかった悔いや悲しみが、彼女の心の陰りの原因だろう。失恋は時が癒してくれるものとも言えるけれど、ココはボーイとの幸せな時間を達観して懐かしむというような、悟りの境地にはまだ至れないことが分かる。彼との別離は、数十年を経ても未だにココの心に影を落としているのだ。「結婚こそが女の幸せ」という価値観だけで判断すれば、ココの人生は必ずしも幸せとは言えない。
ココがボーイにプロポーズされた時、彼女は「私が自立してから」と断る。「えー!もったいない」と思いつつも、そういうココの気持ちも分からなくもない。経済的援助はボーイから受けていたので、彼と対等な立場になってから結婚したかった。エチエンヌと別れたのは、彼に結婚の意思がなかったため。なぜ結婚しなかったのかと言えば、孤児である自分と彼の家柄とが釣り合わなかったから。そのことが彼女のコンプレックスとなっていて、ボーイとはせめてビジネスの面では対等でありたかったのだろう。だが、ボーイは彼女から拒絶されたと感じ、別の女性と結婚してしまう。ココの強がりやプライドの高さがボーイとの結婚を遠ざけてしまったと言える。このことを観客(特に女性)はどう見るのだろうか?「あ~あ、ココってばあんなに強がらずに素直になれば良かったのにねぇ」とココを批判するか、「ボーイったら、何だかんだ言っても結局は強い女よりはかなげでか弱い女を選んだのね」と憤るか。
これはどちらも正しい意見なのだと思う。2人が結婚しなかったのはあくまでも結果論だ。ココが先進的で、ボーイが保守的であって、どちらが悪いというわけではなく、ただ単にタイミングが結婚には向かなかったということだ。
だが女たるもの、タイミングが悪かったというだけで、愛する人をきっぱり諦め切れるわけではない。心のどこかで彼との思い出が引っかかり、それが澱のように心に沈殿してしまう。その澱の部分を上手く表現したのが、シャーリーだ。出番は少ないながらも、「公」の情熱や成功と「私」の後悔や未練、人生の喜びや苦みがないまぜになった複雑な表情を見せて、進歩的で華やかなサクセス・ストーリーとしてだけではなく、実らなかった恋や一生癒えることのない傷を抱えてでも生きていこう、それらをひっくるめてこその人生なのだ、というようなある種の諦念を感じさせ、作品に奥行きを与えている。シャーリー自身も年を重ね(現在74歳!)、顔や手の皺が目立つようになったが、その年齢や皺も人生のほろ苦さを醸し出すことに成功している。実に味わい深く余韻を残していて、「さすが、シャーリー」と敬意を表してひれ伏したくなる。
もし、老ココがラストに満面の笑みを見せていたら、失恋の痛手を克服してのハッピーエンドと言えただろう。だが、穏やかな微笑を浮かべる彼女を見ると、まさに「天は二物を与えず」で、筆者にはどうしても「負け犬」という言葉が浮かんでしまう。念のため付け加えるが、筆者は何もココを憐れんでいるのでもなく、蔑んでいるのでもない。ただ、結婚という点に関しては、彼女は敗者だ。ただし、同じく「負け犬」たる筆者から見て、本作で好感が持てるのは、老ココが「結婚なんてしなくて良かったのよ」などとうそぶかず、素直に「負け犬」であることを受け入れていることだ。ここでご都合主義的に「失恋をバネに成功を手に入れてハッピーエンド。男なんて必要ないわ」などとせず、歩んできた人生ありのままを認めている。ああ、負け犬的生き方とはこういうことなのかな、とすとんと納得してしまう。
『負け犬の遠吠え』のなかで酒井さんは、「負け犬」であることを認めた方が楽になる、という主旨のことを書いていたが、まさにその通りなのかも。それを時代にさきがけて実践していたココは、ファッションの分野だけではなく、やはり「負け犬」のパイオニアだったのだ。
幸せの価値観とは人それぞれ。結婚が幸せと考えるか、仕事での成功を幸せと考えるかは、人によって違いはあろう。
とは言っても、本作は幸せのあり方を示すものでも、ココの生き方を問う作品でもない。ただ、周囲の批判や中傷に惑わされることなく、自分を見失わずに“Going My Way”的な生き方を貫いた彼女に、同じ「負け犬」として見習う点は多々ある。いや、これは「負け犬」であろうと「勝ち犬」であろうと、オスであろうとメスであろうと関係なく、あらゆる人に当てはまることだ。自分を信じ、自分のやりたいことに打ち込めば、道はおのずと開ける――そんなメッセージを感じられる。その証に、若い時代のココを演じたバルボラの、帽子をデザインする時の瞳が何とキラキラと輝いていたことか。好きなことに真剣に打ち込む彼女の姿は、凛としていて美しかった。
女性のファッションの話が軸となっているため、女性向けの映画とも捉えられがちだが、「生き方」を考えるのに男性も女性も関係ない。ぜひ男性の方も臆することなく見ていただきたいと思う。
(2009.8.28)
ココ・シャネル 2008年 アメリカ・イタリア・フランス
監督:クリスチャン・デュゲイ 脚本:エンリコ・メディオーリ コスチューム・デザイナー:ピエール=イヴ・ゲロー
出演:シャーリー・マクレーン,バルボラ・ボブローヴァ,マルコム・マクダウェル,オリヴァー・シトリュック
8月8日よりBunkamuraル・シネマ、TOHOシネマズシャンテ、
新宿武蔵野館他にて全国ロードショー中
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